自己肯定感を上げるためにジャニーズ教に入信した私

■自己を認めない仄暗さ、ここに在り。

先日、脚本家の先生とお話しさせていただく機会があった。
色々な話の中で、私の低すぎる自己肯定感の話になった。同じくその先生も自己肯定感が低いという。
その先生は、大ヒット作の脚本も手掛けているし、家庭も円満。いわば成功者なのに、全く自分を認めていないという。たしかに会話させていただく中で、成功を見せつける嫌らしさを一切感じない。その会話をした場所もどこかのラウンジではなく、都内の喫煙可の老舗喫茶店だった。(無論、私に合わせていただいたのだとは思うが。)
そのような仕事で成功しきった人でも、自己を認めない仄暗さは付きまとう。自己を認める道、月より遠し。自己肯定感は仕事や家庭で埋まるものでは無いらしい。

自己肯定感が低い人は、基本的に「私なんて……」と自分を卑下してしまう。
私の場合、自己卑下が強すぎて、インスタグラムも辞めてしまった。私なんかの人生を切り取って見せつけて何になる? キラキラを競ってしまう以前に、そんなことを思いスタートラインに立てない。加えてタイムラインに流れる他者の生活情報を見ているだけで情報量の多さや、その裏のエゴに疲弊してしまい純粋に楽しめない。

そうやって自分が苦手そうな評価社会へは自分から線引きするようにしているのに、生きていると常に他者評価が付きまとう。厄介なのが、悪い評価にではなく、良い評価に対しての方が落ち込むことが多い。
私の場合、悪い評価はされて当たり前。そりゃそうだよね、と納得できる。
逆に良い評価をされた場合、「この人は何を求めているんだろう」、「きっとニコニコ喜んでおけばいいんだろうな」と穿った考えが浮かんでしまう。
本当に自分自身に満足していれば、良い評価にも悪い評価にも振り回されず胸を張れる。
私はもはや自信以前に自分が無い。だから自分の生み出したものや、自分のセンスに常に首をかしげてしまう。期待値が高いわけではなくて、単純に自分を受け入れていないのだ。

■身体を張って「選ぶ側」に回り、復讐活動に興じた20代前半

とは言えもう少し若い20代前半の頃は、「若さ」という誰もが平等に通ってきた記号を持っているだけで自分を受け入れられられたこともあった。
みんな持っているものが、私にも平等にある!という安心感から、時に自信過剰な思考にも陥った。ただそんなもの、たかが数年で手のひらから零れ落ちることは知っていたので、その時期に近くにいた人は誰も信用できなかった。
まやかしと気付きながらも今しかない記号を振りかざして遊びに興じた。「若さ」をドラッグのように使っていた。その頃、その記号を使って、私はこれまで自己肯定感を下げる原因にもなっていた男性からの扱いに対する復讐活動に精を出していた。
生きているだけで痴漢され、誘拐され、おっぱいの話をされ、顔ランキングのネタに使われ、ただ存在しているだけの私のことを勝手に評価し踏みにじってきた人間とそれを育んだ土壌への復讐
「若さ」を武器に、色んな男性と遊ぶことはなんの意味もないことくらいわかっていたが、それだけで自分を納得させるには十分だった。つまり、自分が男性を選び、好きに扱うことで自己肯定感を上げていた
くだらなすぎるけど、自分が「選ぶ」立場である、どんなに立派な男性でも、性欲を前にしたら、私が勝者であることに快感を得ていた。もちろんこちらから勝手に相手を侵害しないように、最低限のマナーを守りながら。好意を向けられた方に対してだけのささやかな復讐だった。

今現在、そのような行為はしていない。もちろん結婚・出産をきっかけに辞めたわけだが、そもそもが復讐目的だったから、私自身、恋愛・セックス依存体質というわけでもないし、その分野にそこまで興味が無い。他者を傷付けてまで行いたいとも思わない。

■全ての人に平等に接してくれるジャニーズで自己を認める

復讐活動をしなくなり、また自分を保てなくなった私の唯一続いている趣味が「ジャニヲタ活動」だ。
この活動では、お金で彼らを消費することに快感を生み出しているわけではない。一方的な消費は人権侵害だ。相手とコミュニケーションが取れない中でそんな行為はしたくない。
私はジャニヲタ活動をしている時だけは「自分」を認められる
ジャニーズは、ステージ上から平等にファンを扱ってくれる。もちろんファンサービスの多さなどで、気に入られているかを計る楽しみ方も存在するが、周囲と対決するには圧倒的に母数が多い。
もし、私がアイドルの中の一番になることを目的にヲタ活をしていたのなら、地下アイドルのファンになっているだろう。
逆に私はジャニヲタ活動で、「その他大勢」になれることに喜びを見出している。
年齢も、性別も、国籍も、障害の有無も越え、ステージ上のジャニーズは平等に愛を語ってくれる。その瞬間、私は全ての評価軸から外れた純粋な個体になる。私という個性は関係なく、「愛してる」と言ってくれる存在、それがジャニーズだ。こんなに素晴らしい平等で無償の愛は無い。

恋愛にしろ友情にしろ、実在する人間関係は、当たり前だが相手以前に「私」という評価された個性の存在が前提だ。だから私には難しく感じてしまう。
ジャニーズにとって「私」は存在しない。現実世界で私という個体に「愛している」とささやかない代わりに、その他大勢に「愛している」と叫んでくれるのだ。
その瞬間、私はもはや私でなくてもいいと、許された気持ちになる

■ジャニーズソングは自己肯定感アゲソング

さらにそんなジャニーズが歌う楽曲は、許し、認めることでまっさらになった私に優しく浸透し、徐々に自己肯定感を上げてくれる。
いくつか抜粋する。

●ダイヤモンドスマイル/なにわ男子(ジャニーズJr.)
「また『私なんて』ってセリフ、キミには似合わないよ」
「嫌いな自分、好きな自分、素直に言えたらいいね」

→現実を全肯定。嫌いな自分がいるということをまだ認められていない状況さえも肯定してくれている。そして「嫌いな自分を変えよう」ではなく、「認められたらいいよね」と、臨床心理士並みの言葉を投げかけてくれる。
●シンデレラガール/King & Prince
「キミはシンデレラガール」
→歌い出しがこのセリフ。無条件に誰もが生まれながらにして「シンデレラ」なんだと気が付かせてくれる。生きているだけで丸儲け改め、生きているだけでシンデレラ。自分は無条件に愛してあげても良い存在なんだと思い直すことができる。
●ぎゅっと/Sexy Zone
「自分だけは絶対離さないで」
「それでも夜は空けるけれど、君にとっては辛いんだろな」

→自分を守ることができるのは自分だけであるという歌詞に、自分をボロボロにしそうになるときにいつも立ち返る。そんな言ってしまえば綺麗事のあとに、「明けない夜は無い」という根性論ではなく、「夜が明けることによる苦しみ」を包み込んでくれる優しさがこの歌にはある。

ジャニーズという存在が自分を認めてくれて、さらに楽曲で自己肯定感も上げてくれる。だから私はテレビ出演や舞台よりも、ジャニーズオリジナル楽曲が聞けるコンサートやミュージカルが好きだ。

ジャニーズのおかげで、今日もなんとか生きている。

これからも頑張ります!