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評価判断を「保留」することの難しさ

最近のキーワードは「保留」という言葉
最近読んでいる本2冊(U理論対話についての本)で出てきて、先日の人類学のイベントでも出てきていた、評価判断を「保留」すること

人類学に出会う前は、前に進む為に判断することを急いでいた
現状を評価、判断し、何を実行するかを決めなければいけない
答えを出せないことは前に進めていないという認識があった
人類学に出会い、評価判断することが対象を分かろうとする活動においては助けにならないということを学んだ

それを学んでからは、いい感じに出来ている感覚があったが、最近ある会話で評価判断を保留することがままならなくなり、判断してしまう自分に出会った

判断すると、一瞬にして相手に向かうことが難しくなった
一気に自分の内の声に引っ張られ、相手が渡してくれる言葉が判断対象に見えてくる
いかんいかん、と戻ろうとしたが体調悪かったからか全然戻れなかった

判断する事で相手に向かい続けなくていい理由を用意したのかもしれない
判断することを過去に私がやっていた様な理解を進めるためや、答えを出すためではなく、相手に向かうのを止めるため、心の耳を塞ぐために行ったという感じだった

それは、「言ってたことと違うじゃん!」という(私からは)一種の裏切りのように見える言動に出会い、動揺したからだと思う
相手に対しての期待もあった

でも、相手にはそう振る舞わせる状況がある
ただ、それだけである。と言うことを動揺のあまり思い出せないでいたのだ

多分、一番動揺していたのは相手の方だったのかもしれない
なんだか申し訳のないことをしてしまったなぁという気持ちだ

相手がもう一度向かってくれる機会があるのなら、どんな状況にいるのか少し教えてもらいたいなぁ
待つこともできるけど、他に何か始められる会話はあるだろうか

まだまだ道のりは遠いなぁ
私の人類学的態度はまだまだ鍛錬の余地があるようである

今思うと、このエピソードでの動揺は自分の価値観が我を出したサインだと思う
あぁ、どこまで行ってもやはり私は「私」という分厚いフィルターを通して世界を見ているんだなぁ、としみじみしてしまった

改めて、評価判断をして見聞きしたことを整理していくことが、対象を分かろうとする行為においては意味をなさないのだということを体験した
意味をなさないだけでなく、世界を見ている「私」というフィルターをより分厚くし、分かる可能性を狭めるものなのであった

しかし、評価判断してしまうのはそこに自分が居るからという、無視できない当たり前の事実がある
少し進んでは、何度も自分に戻ってくる
また自分を知るターンなのかなぁと思い、ゆっくり自分に向き合う肌寒い秋の夜なのでした


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