読書なんてするもんじゃない

読書なんてするもんじゃない、と思う。

読書が崇高な趣味になり過ぎている。読書とはもう少し気軽なものでいいのだと思う

読書離れが深刻化しているとよく聞く。私は他人が本を読もうが読むまいが結構どうでもいいのだが、私一人で作家さんたちを養うことはできないので、作家さんがそれを生業にするために、読書好きがある程度いてくれると助かるとは思う。いわば年金のようなものである。作家と言う高齢者を支えるために、読者と言う若者が必要なのである。

でも、不思議に思うことがある。なぜこんなに読書は大切だとうたわれるのだろう?

ゲーム依存症が問題になり始めている。スマホやSNSなどもである。利点よりも欠点のほうが多く挙げられているのに、である。

思うのだが、人は「これがいいよ」と言われるよりも「よくない」と言われる方が、気持ちがウズウズしてやりたくなってしまうのではないだろうか。小さな子に「これは駄目ですよ」と言うと好奇心でやりたくなる。大人になっても、きっとその好奇心は心にむくむくと根付いていて、仕事で抑えつけ、趣味で破裂させるのだ。趣味は大人の好奇心のはけ口である。好奇心を満たすためには、ある程度悪いものでないと「やりたい」とは思わない。

そこで、私にとっての読書の利点欠点を考えてみた。

はっきり言って、欠点しか思いつかなかった。

肩は凝るし、目は疲れるし、続きが気になって夜更かしをして、翌日の仕事にも影響するし、寝不足になるし、続きを読みたくて仕事に身が入らないことも多々あるし、電車を乗り過ごしてしまうこともあるし……。いくらでも挙げられる。

読書の時間を他のことに有効活用すると、一年間でどれぐらいになるだろう考えることがある。その時間を別のことに有効活用し、何か他の事を成し得た可能性もあるのではないかと思う。物心がついた時から現在までの読書のために費やした時間の無駄ったらない。約4000冊、本を読んだ効能は何であろう。

きっと読書を推奨する人々は、それはとても良いことだと言ってくれるかもしれない。しかしながら私は、本を読んでいない人生をまだ歩んだことがない。まだ歩んでいないのに、本を読んでいる人生と、読んでいない人生を比べることなど、できるはずがない。想像力を養った、かもしれない。でも本を読んでいない人生も、想像力はあるかもしれない。どれぐらい差があるなんて誰にもわからない。文章力しかり、知識しかり、読書に対する効能のほとんどが読んでいない自分と比べていないから、本当のことなのかは誰にも分かり得ないのである。

ならば私は、肩こりもしない、目も疲れない、もっとアウトドアな、洒落た趣味を持ちたかった。なぜ読書? と厄介に思う。

それでも読書がやめられないのは、スマホゲームは脳に良くないから駄目だ、と世間から言われつつ、でもやっぱりゲームはやめられないという方の心境とほぼ同じではないだろうか。そう考えると世間の読書離れというのは、いいことばかりを羅列し、推奨しすぎた結果のせいのように思う。自分の趣味を自慢したくなる気持ちはわかるが、その良さをそんなにひけらかすことでもあるまい。

読書なんてするもんじゃない。でも私は読書が好きである。だからこそ大きな声で言いたい。読書なんてするもんじゃない。読書は欠点ばかりである。世間の言う、読書の利点や効能は机上の空論なのである。

試しに朝の十分間読書の変わりに、朝の十分間ゲームをしてみたら良いと思う。ゲームを推奨してみたらどうだろう。利点ばかりを並べてみたらどうだろう。いくら好きなものでも、強要されたら嫌いになることがある。もしかしたら学校による読書の強要で、好きなはずなのに嫌いになっている人がいるのかもしれない。

誰かを好きになる時も、きっとこんな気持ちなのだ
ろうと思う。誰かに恋をするとき、その人の素晴らしいところだけを知るのではなくて、その人の欠点を知りつつも、それでもやっぱりその人がいい、と思う。それが恋だと思う。私の、読書に対する気持ちはそんなものだ。欠点ばかり目につくのに、私は本を読んでいる時間が好きだ。本を読んでいる自分が好きだ。

読書なんてするもんじゃない。だからこそ私は今日も、本を読む。

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