ポストが好きである。

ポストが好きである。

信号を確認するのと同じくらいの心持ちで、ポストの位置を確認して町を歩いている。

黒や茶色、ピンク色のポストもあるが、私はとにかく赤いポストが好きである。町の中で、こんなにも豪快で潔い赤を他に見ない。紛うことない赤色が、ポストの存在価値のほとんどを締めていると思っている。そして素晴らしいことに、使い古されたポストであっても日々の雨風に負けることなく、その赤を持ち続けている。意志のある赤だと思う。

赤とは、不思議な色である。

書道作品の中にも赤がある。

書道作品には落款というものがある。作品を書き終わったあと、これはいつ・どこで・誰の何という言葉を・誰が(どんな志を持った人が)書いたのか、明記することである。落款によって作品の完成度は大きく変わる。そして多くの場合、落款印というものが押される。これは雅印と呼ばれ、作品専用の印のことである。

どんなものでもそうではあるが、物には適切という限度がある。この落款印は一つでも二つでもいいし、押さなくてもいい。作者の裁量である。適切なサイズを、適切な数、押さなくてはならない。多すぎても少なすぎても、大きすぎても小さすぎても、押す間隔が広すぎても狭すぎても、作品は腐ってしまう。

また、遊印というものがある。これは作品の必要に応じて、右上や右下に印を押すことである。必要であれば押すことを求められ、必要でない場合は押さないことが求められる。

ポストはまるで、書道作品における印のようである。

知らない駅に降りたとき、ポストを見つけると安心する。まるで町が、一枚の書道作品になったような心持ちがするのである。ビルやコンクリートにおおわれ、車が行き交い、人々が足早にどこかから去りどこかへ向かう。単一で色のない光景の中で、ポストは煌々とただ赤くある。人と人を結ぶために、必要な量と間隔で、求められるサイズで、あるべき場所にじっとしている。その赤は、常に適切な赤である。

ポストが好きである。

ポストは、信じるに値する存在である。

ポストがあるだけで、町は作品になる。一枚の意味あるものとなる。知らない場所が、知っている場所と繋がっていることを、赤い色で示してくれている。ただの雑多と偶然から起こっているのではなく、全ては必然であると。私がここに立ったことさえ必然であると言わんばかりに。

印は書道において「重石」と呼ばれることがある。

印の押された部分が「重くなる」という考え方である。すなわち作品の中の軽い場所に印を押せば、全体が均一になり動かなくなる。しかし、もし誤って重い場所に押してしまったら、作品は均一を保てなくなり、たちまち沈んでいってしまう。印は作品の生死のかかった絶妙なバランスを担って存在しているのである。

きっとポストも、町の何か。町の生死をかけた何かを担っているに違いないのだ。たとえば手紙を入れれば届けてくれる、その信頼の重さ、責任の重さを、きっとポストは担っている。ポストは町の重石である。町が沈まないように赤くあり続けているのだ、きっと。

ポストが好きである。あの赤色。あの静かさ。真の責任の在処とは、このように淡々と己の役割をまっとうすることなのかもしれない。

いつか私も、何かの重石になれるだろうか。いるだけで安心させられる人になれるだろうか。誰かの心のバランスを取るために、必要とされる人になれるだろうか。

旅に出ると、手紙を出したくなる。

知らない土地で、はじめて出会ったポストに手紙を任せる瞬間は、感動する書道作品に出会うあのときめきに似ている。




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