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文常院の明和史コラム #5 明倫堂開学240周年記念~シン・明倫堂史②~

文常院の明和史コラム。このコーナーでは、修士課程まで行って明和史を研究している私が、直接研究には使えないけど面白いなと思った明和高校の歴史をテキトーにまとめていきます。話のタネにでもどうぞ。


 2023年5月1日、明和高校がその末裔を自認する尾張藩藩校明倫堂は開学からちょうど240周年を迎えます。でも、「明倫堂と細井平洲は知ってるけど、あとのことはサッパリ」というそこのあなた!今回はそんなあなたに向けて「シン・明倫堂史」と題して、全3回のnoteでできるだけわかりやすく明倫堂の歴史をご紹介!これで君も、明和の教員もびっくりの明倫堂史マスターだ!
 第2回は、明倫堂の成立とその教育。細井平洲以外の明倫堂成立の鍵を握る人物、そして平洲なき後の明倫堂を担った人物は一体どのような人たちだったのでしょうか。

(初回はこちらから↓)

2. 明倫堂の成立とその教育

(1) 細井平洲の招聘と人見

 宝暦11年(1761)、第八代尾張藩主徳川宗勝の後を継いだ九代藩主宗睦は、経済の衰退、天変地異が相次ぐ中、庶民生活の安定、農村社会の復興を藩政再建の重要な柱とし、武士と庶民の教化をその一政策として推進しようとしました。そのためには尾張藩に優秀な学者が必要です。そこで、安永9年(1780)、宗睦の意を受けた、時の尾張藩勘定奉行、人見璣邑は当時全国に名を轟かす儒学者であった細井平洲に白羽の矢を立てました。

写真1:細井平洲誕生の地(東海市)

 細井平洲は尾張国知多郡の生まれで、中西淡淵に学び、宝暦2年には江戸に嚶鳴館を開いています。ここで米沢藩の世継ぎであった上杉鷹山を教えました。のちに鷹山の招きで米沢に出向き、藩校を再興して興譲館(現:山形県立米沢興譲館高校)と名付けます。当時引く手あまたでありつつも、決して特定の藩の召し抱えにはなろうとしなかった平洲をなんとかして尾張に招くことができないものか。ここで粘りを見せたのが人見璣邑だったのです。
 璣邑は藩主宗睦に抜擢され、天明改革とも言われる尾張藩の大改革を主導した辣腕執政人です。彼は平洲を尾張に招くため、平洲に向けて以下のような手紙を書きました。

 私は人一倍の感激屋かも知れない、昔の人君が一人の賢臣を得て国政を改革したといった話を読むと、感慨にひたりきって夜の明けるのを恐れるばかりだ。しかもこのたびは平洲先生をわが尾張にお迎えできるかと思うと、これこそ昔のことではなく、また他国のことでもない。じつにわが尾張のことである。もう私の胸はワクワクするばかりだ。私は平洲先生が米沢において大変な教育成果をあげられたということを聞き、上杉鷹山侯と平洲先生の結びつきは、古く池田光政公と熊沢蕃山との結びつき以上のものだと思った。
 しかし先生。先生の徳は米沢、紀州においてさえ全日本に伝えられるのですが、もし先生がその郷里で、土地は肥え五穀豊かに、民の俗みやびなるわが尾張において教育にあたられるなら、先生の徳化はこれまで以上の効をあげられるであろう。先生の徳化を仰ぐのはわが尾張藩のみではない。日本全国および後の世も先生の徳を仰ぐであろう。

漢学者の鬼頭有一氏が意訳したもの
『愛知県立明和高等学校二百年小史』所収

 意訳とはいえ、なかなかうまい文章に見えます。特に、明倫堂の影響力が尾張にとどまらない点(次回詳しく触れます)や、「後の世も先生の徳を仰ぐ」という点は(今皆さんが細井平洲を知っているという点において)、まさにその通りとなったわけです。このように璣邑は明倫堂の成立を陰で支えたキーパーソンだったのです。

(2) 明倫堂の開学とその内実

 天明元年(1781)、璣邑の意に応え、尾張に奉じることとなった平洲は、手始めに巡村講話を開始します。その後、天明3年(1783)には前年から建設が進んでいた学館がついに落成し、藩主宗睦は先代宗勝の書による「明倫堂」の扁額(第1回参照)を下賜します。こうして藩校は明倫堂と名付けられました。そして同年5月1日、細井平洲を総裁として藩校明倫堂での講釈が開始されました。ここに藩校明倫堂が開学したのです。
 明倫堂では武士の子弟以外に町人などへの講釈も配慮されていて、日程を変えて身分別に講釈を行っていました。武士の子弟への教育の実態の詳細はわからない部分も多いのですが、督学・都講・典籍などと呼ばれる教授陣のもとでかなり組織的な教育がなされていたと推測されます。

図1:尾張名所図会の明倫堂図

 明倫堂に通う子弟たちの様子を、もう少し具体的に見てみましょう。まず、明倫堂生徒は毎朝6時半登校、14時下校が基本です。暑い日にはもっと早く来て昼前には帰ってしまうんだとか。そりゃ、クーラーもなければそうなりますよね。授業として行うのは主に四書五経やそれに注釈をつけた本の講釈、そして素読(音読のこと)、問義、輪読など。もちろん、漢文です。その他にも月に数度は詩作・躾法・算術・音楽・射芸などの科目を行っていたようです。校則には「刀は刀置き場へ」など、いかにも武士っぽいルールが並んでいたとか。

(3) 冢田大峯の学制改革

 明倫堂の主宰者の長のことを督学と呼びます。督学は初代細井平洲が寛政4年(1792)に辞した後、岡田新川、石川香山が相次いで就任しましたが、校風は振るわず、一時生徒数は30~40人ほどまで落ち込んだといいます。この校風衰微は、藩財政の窮乏や化政期(1804-1830)の風俗の乱れ、新藩主斉朝が尾張徳川家正系でないための人心離反などによる尾張藩全体の衰退期と重なるものでした。

図2:歴代明倫堂督学一覧

 ここに4代督学として冢田大峯が招かれ、明倫堂の学制の改革が始まったのです。大峯は信濃の出身で、寛政異学の禁による朱子学の「正学」化に批判の声を上げた寛政の五鬼の1人に数えられる人物です。大峯の特徴は政治と学問の大胆な結合による人材登用論。政治の場には、家柄がよい者などではなく学問ができるエリートが登用されるべきだという考えです。今では当たり前と思うかもしれませんが、儒学が単なる教養で、それができるかどうかが人材登用の指標ではなかった時代においては画期的なことでした。ただし、エリートのみが明君を助けて善政をなすことができるという彼の立場は、その教育論が治者のための教育論に終始することになります。これは崩壊する農村社会の再建という課題に応えるべく庶民も含めた教化を行った平洲の教育論とは異なるものでした。しかし、大峯の教育論は何も平洲の全否定ではなく、上は下の鑑という徳性陶冶論において庶民教化の可能性や必要性を内包しうるものでした。

 文化8年(1811)、督学に任じられた大峯は、「撰挙科目」を定めて人材登用の基準とし、翌年には「戒約」五か条を堂中に貼り出して生徒が守るべきルールとしました。さらに「読書次第」を定めて、教科書と教科課程を制定しました。また、この頃から学生階級制も整えられました。このように大峯の人材登用論を反映した学制改革は、平洲以来続いていた折衷的教育を一変させ、藩校の生徒数は400~500人の規模まで膨張しました。大峯が残したこの学風は幕末まで明倫堂を支配していきます。その意味で、明倫堂にとっては大峯こそが学問的な支柱であったのです。
 しかしながら、こうした明倫堂の膨張は藩財政の耐えうるところではなく、上級の学生には定員が課され、所定の課業を終えても進級できないという事態が天保15年(1844)以降、顕著に現れるようになりました。大峯の人材登用論からすれば、藩校の学生が明君を助けるために登用され、その分、学生定員に空きが生じるはずだったのですが、現実の登用にはコネや家柄などが要件とされ、藩校学生からの登用は困難なままでした。大峯に代わった時の督学、正木梅谷の努力も虚しく、明倫堂は次第に人材が固定化された閉鎖的教育機関へと変節していったのです。

 以上、見てきたように、明倫堂開学の裏には人見璣邑の尽力が、平洲なき後の明倫堂の学風には冢田大峯の影響が色濃く反映されているのです。安易な教科書用語への飛びつきは、こうした真に重要な人物たちを捨象してしまう危険性をはらんでいることがおわかりいただけたでしょうか。さあ、次は最終回。明倫堂は激しく動揺する幕末政局の中で一体どのような役割を果たすのでしょうか?


写真・図
写真1:筆者撮影
図1:愛知県教育委員会『愛知県教育史』第一巻(愛知県教育委員会、1973年)より引用
図2:前掲『愛知県教育史』第一巻、「明和会」記念誌編集委員会『愛知県立明和高等学校史』(1998年)を参考に筆者作成。両者の記述に相違があった際には、後者を優先した。

参考文献
愛知県教育委員会『愛知県教育史』第一巻(愛知県教育委員会、1973年)
明倫堂開校二百年記念実行委員会『愛知県立明和高等学校二百年小史』(1983年)
「明和会」記念誌編集委員会『愛知県立明和高等学校史』(1998年)

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