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文常院の明和史コラム #4 明倫堂開学240周年記念~シン・明倫堂史①~

 文常院の明和史コラム。このコーナーでは、修士課程まで行って明和史を研究している私が、直接研究には使えないけど面白いなと思った明和高校の歴史をテキトーにまとめていきます。話のタネにでもどうぞ。


 2023年5月1日、明和高校がその末裔を自認する尾張藩藩校明倫堂は開学からちょうど240周年を迎えます。でも、「明倫堂と細井平洲は知ってるけど、あとのことはサッパリ」というそこのあなた!今回はそんなあなたに向けて「シン・明倫堂史」と題して、全3回のnoteでできるだけわかりやすく明倫堂の歴史をご紹介!これで君も、明和の教員もびっくりの明倫堂史マスターだ!
 初回は、明倫堂前史。明倫堂は細井平洲が作ったと一言で説明しますが、そこに至るまでの道のりは決して平坦ではありませんでした……。

1. 尾張の藩学-明倫堂前史-

(1)   初代藩主義直の文教政策

 明倫堂前史として必ず触れられるのが、尾張藩の初代藩主徳川義直が大変学問好きであったというエピソードです。家康の第9子で慶長5年(1600)に生まれた義直は、儒学への尊崇が深く、元和8年(1622)には堀杏庵という儒学者を招いて尾張藩の儒者職に任じています。
 ときに、寛永6年(1629)、家康から家光までの将軍3代のブレーンを務めた有名な儒学者林羅山が京都から江戸へ向かう途中、尾張に立ち寄り、聖堂を拝したという記録が羅山自身の手によって残されています。聖堂とは、儒学の祖である孔子をまつった施設です。この時、羅山が尾張で聖堂を見たということは、尾張藩が寛永6年より前に聖堂を建てていたということになります。これは、教科書にも出てくる有名な上野忍岡の聖堂(のち、移転して湯島聖堂)[1]の設置よりも3年以上早いのです[2]。義直の学問好きの側面は、この「尾陽聖堂」という近世最初期の聖堂の設営をもってして、なお一層強調されていきます。

 さらに、義直の事績として看過できないのは、大津町の学問所設営です。『愛知県教育史』によれば、儒学者を招き、月俸給与によって学校の運営に一定の保護を加えたものとされ、藩主や藩士の教育の場としての公的性格を帯びたものとして注目されると述べられています。また、皇學館高校の教諭であった田辺裕氏は、この大津町学問所の成立を慶安2年(1649)と推定しました。もしこれが本当であれば、この学問所は最初期の藩校の1つと言ってもいいでしょう。
 しかし、「本当であれば」という条件を付けた通り、義直期の文教政策は、その事績をはっきりと物語る史料に欠け、不詳な点が多いのです。これは「公儀への御遠慮」、つまり、学問好きが高じて将軍よりも奨学に努めてしまったがため、将軍に遠慮して史料を残さなかったことが原因とされています(が、これも本当かどうかはわかりません)。ただ、義直の学問好きの精神自体はその後も語り継がれ、以来、尾張徳川家が文教政策を行おうとするたびにその淵源として義直が引き出されることになります。

【写真1】尾張藩祖徳川義直の墓(定光寺・源敬公廟)

(2)   学派の変遷

 さて、ここで一旦、明倫堂のみならず近世の学問を理解するうえで重要な儒学について簡単に触れておきます。江戸時代、武士の必須の教養になったのが儒学でした。儒学は君臣や長幼の序を重んじる、つまり上下の身分秩序を大事にする思想を持った学問であったので、封建的支配の世に適合した学問でした。儒学の祖は、先ほども述べた通り、孔子なのですが、孔子はこの時すでに1500年以上も昔の人。その人の教えが正確に伝わっているはずもなく、儒学の細かい解釈は学者によってさまざまでした。例えば、朱子学や陽明学、古学など。さらに朱子学の中でも藤原惺窩の京学や山崎闇斎の崎門学、古学の中でも山鹿素行の聖学、伊藤仁斎の堀川学、荻生徂徠の古文辞学など、細かく細かく分かれています(今あげたものは日本史選択なら暗記必須事項ですねぇ↑)。
 では、尾張藩ではどのような学派が盛んだったのでしょうか。尾張藩初期には朱子学のうちの京学が中心的位置を占めたといいます。その他、尾張に流入したものには崎門学があり、それに次いで古文辞学や君山学(尾張の儒学者松平君山の学派)が入っていました。
 そんな中、我らが細井平洲が尾張に招かれます。彼の学風は朱子学や古文辞学の解釈をいわば「いいとこ取り」した折衷学でした。こうして尾張にも折衷学が導入され、平洲と親しかった冢田大峯が藩校改革を行うと、平洲と大峯の学派が藩校を支配する勢力として幕末まで続いていくことになります。

(3)   幅下明倫堂

 では、話を明倫堂前史に戻しましょう。尾張藩の文教政策において、初代義直の次に注目すべき藩主は、八代藩主の宗勝です。宗勝の治世において、組織的教育機関である幅下明倫堂が成立するのですが、その背景にある宗勝の教学的態度を理解するためには、その前代の藩主宗春について触れなければなりません。
 宗春は、現代名古屋においても著名な尾張藩主の1人です。七代という中途半端な代の藩主が現代において注目される所以は、宗春が芸どころ名古屋の祖として顕彰される風潮が存在するから[3]。遊興奨励を展開した宗春でしたが、学問については「それは勝手にやるものだ」と思っていたようで、積極的に奨励をするに至りませんでした。倹約政策を採る将軍吉宗との対立によって宗春が強制退隠させられた後、尾張徳川家の親戚である高須松平家から迎え入れられた八代藩主宗勝は、宗春期の遺制と弊風の否定に取り組みます。宗勝の教学的態度は、学問を「勝手にやるもの」とした宗春の修正者を意識したものにならざるを得ず、幅下明倫堂成立の意義はその流れの中に位置づけることができるでしょう。

 では、幅下明倫堂の詳細について見てみましょう。幅下明倫堂創建のきっかけは、尾張藩崎門学の先駆者の1人、蟹養斎の建学願いによります。藩当局はこの願いを受け入れ、延享5年(1748)、官許教育機関として幅下に学問所が創建されました。のちに宗勝自らが「明倫堂」の三文字を書し、それを彫らせた扁額(明和の図書室にあるのはそのレプリカです)を学問所に与えたことから、この学問所は明倫堂と呼ばれることになりましたが、のちの片端長島町(現:名古屋東照宮)の藩校明倫堂と区別するために、時代が下ると幅下明倫堂と呼ばれるようになりました。

【写真2】明倫堂扁額(徳川美術館蔵)

 この幅下明倫堂は官許を受けたと言っても、その恩恵は権威付けと少ない援助のみで、当時、藩当局がその学問所を藩校に拡張する意図はなかったものと思われます。よって、幅下明倫堂の実情は蟹養斎の家塾の延長であって、のちの藩校に直接繋がるものとはなりませんでした。しかし、幅下明倫堂は官許を受けたがために養斎個人の占有物でなくなったのであり、藩の方針の変遷や学派的対立によって、養斎は宝暦2年(1752)ごろには幅下明倫堂から退去させられました。その後は、松平君山、須賀精斎、深田厚斎、小出慎斎らが幅下明倫堂を主宰することになりましたが、天明初年(1781)ごろまで何らかの形で教育が続けられたのち、自然消滅したものと思われます。

 ここまでが、明倫堂前史です。尾張藩前期の文教政策をザザッと見ていきましたが、まだ、藩校明倫堂は誕生していません。ここからいかにして明倫堂開学への道を辿っていくのか。そこには、細井平洲の陰に隠れた、明倫堂の真の立役者がいるのですが、そのお話はまた次回。



[1] 林羅山の宅地に設営されたこの聖堂の設営費用も、実は義直の出費で賄っています。
[2] 田辺(1968)は、義直と角倉素庵との関係から尾張の聖堂の創建を寛永2年前後と推定しています。
[3] 平成22年(2010)ごろから「宗春ロマン隊」と呼ばれるNPO法人が名古屋の町おこしのために宗春顕彰を推進し、宗春像が載った郵便ポスト設置や宗春マルシェ開催などの活動を行っています。また、平成30年に名古屋城周辺にオープンした商業施設2エリアのうちの1つも「宗春ゾーン」と呼ばれ、もう1つの「義直ゾーン」であてがわれている初代藩主義直と並び、宗春は代表的な尾張藩主の座を確固たるものにしています。本文で後に触れる通り、宗春は将軍吉宗と対立し、失脚してしまうのですが、そんな彼を必死に顕彰しようとする姿勢に、東京には染まりたくない名古屋人としてのプライドをムンムン感じると言ってしまうのは少し酷でしょうか(ツボイノリオの「名古屋はええよ!やっとかめ」を想起しながら)。

写真
1:筆者撮影
2:明倫堂開校二百年記念実行委員会『愛知県立明和高等学校二百年小史』(1983年)より引用

参考文献
愛知県教育委員会『愛知県教育史』第一巻(愛知県教育委員会、1973年)
NPO法人宗春ロマン隊、http://muneharuroman.web.fc2.com/、(2022/6/27 閲覧)
田辺裕「徳川義直の学問振興」(『芸林』第19巻3号、1968年)
明倫堂開校二百年記念実行委員会『愛知県立明和高等学校二百年小史』(1983年)
「明和会」記念誌編集委員会『愛知県立明和高等学校史』(1998年)

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