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文常院の明和史コラム #6 明倫堂開学240周年記念~シン・明倫堂史③~

 文常院の明和史コラム。このコーナーでは、修士課程まで行って明和史を研究している私が、直接研究には使えないけど面白いなと思った明和高校の歴史をテキトーにまとめていきます。話のタネにでもどうぞ。


 2023年5月1日、明和高校がその末裔を自認する尾張藩藩校明倫堂は開学からちょうど240周年を迎えます。でも、「明倫堂と細井平洲は知ってるけど、あとのことはサッパリ」というそこのあなた!今回はそんなあなたに向けて「シン・明倫堂史」と題して、全3回のnoteでできるだけわかりやすく明倫堂の歴史をご紹介!これで君も、明和の教員もびっくりの明倫堂史マスターだ!
 最終回は明治維新と明倫堂のその後。激動の幕末維新期において明倫堂が果たした役割と、その役割を終えた明倫堂の末路を辿ります。

(初回、第2回はこちら↓)

3. 明治維新と明倫堂のその後

(1) 慶勝の登場と慶応3年の学制改革

 宗睦が亡くなって以降、長らく幕府迎合的な「押し付け養子」を藩主に戴いていた尾張藩でしたが、嘉永2年(1849)、遂に尾張徳川家の親戚の高須松平家から慶勝を藩主に迎えることに成功します。慶勝は藩主になると直ちに停滞していた藩政の改革を実施しました。慶勝は「人民撫育」「富国強兵」を目指し、寛政復古調の基本姿勢を示します。攘夷論者でもあった慶勝は、安政の大獄によって安政5年(1858)以降、退隠謹慎を命ぜられてしまいましたが、文久2年(1862)には解かれ、元藩主として藩の実権を握ることとなりました。以後、慶勝の「人民撫育」「富国強兵」の方針のもと、幕末の明倫堂学制改革が進められていくことになります。

写真1:第14代尾張藩主徳川慶勝

 幕末の改革の実質的主導者は鷲津毅堂という人物です。慶応3年(1867)、督学となった毅堂は、まず、明倫堂の学生が藩役人に登用されない弊害を改め、明倫堂を事実上の人材登用機関にしました。また、上級学生の定員を廃止し、能力があれば進級できるものとしました。そして、冢田大峯の改革以降、冢田学派に固定化されていた藩校内の学派を折衷的性格に変えていきました[1]
 同時に国学や武教育の拡張も始まります。国学教育自体は天保4年(1833)、すでに本居宣長門下の鈴木朖によって行われています。以来、植松茂岳らによって明倫堂においてその教育活動が維持されてきましたが、正式な講釈として認められてはいませんでした。慶応3年の改革に至って、国学教授の職が設けられ、儒学の講釈と対等の時間割が組まれることになりました。藩校は儒学、つまり中国の古典を学ぶ場。日本のことを学ぶ国学が正式科目となるには、幕末期の尊王思想の浸透を待つ必要があったのです。
 武教育については、文久期に武技場が設けられ、学派融合と同じように武術の流派を融合しての教育を試み、慶応3年には武学教授方という呼称で各師範を迎え入れましたが、流儀を無視した武教育は困難を極めたようでした。また、西洋軍学の流入に伴い銃隊操練も行われるようになりました。
 慶応3年の学制改革は、迫りくる時代の危機意識の中で、旧来の閉鎖的教育機関の弊を取り払い、教育が国家富強の課題に積極的に加担することを期待されたことによるものでした。当時の明倫堂総裁(督学とはまた違う役職)の佐藤弥平次はこの姿勢を「政教一致」という言葉で表しました。明治元年(1868)末、堂中に貼り出されていた冢田大峯の「撰挙科目」と「戒約」が除去されたことは、大峯以来、凝り固まってしまった明倫堂の改革が達成されたことを意味するものだったのでしょう。

 ところで、その「政教一致」の姿勢は人材登用だけに収まるものだったのでしょうか。答えは否。明倫堂は幕末政局において尾張藩の勤王思想の震源となっていくのです。改革を主導した鷲津毅堂を中心として、勤王派のブレーンとその門下生たちが藩中枢部に入り込み、慶応4年正月には藩の実権を握る元藩主慶勝が勤王の姿勢を鮮明にします。そして「青松葉事件」による藩内親幕派の処分を経て、尾張藩は勤王へと藩論を統一させます。その後、尾張藩は周辺諸藩を勤王側に付けるための誘引活動を積極的に行ったのですが、その際、各藩の重臣らを招く待賓館として使用されたのが明倫堂でした。明倫堂に招かれた東海道沿道の諸藩の代表は、ここで尾張藩から説諭を受け、勤王に努める旨の証書を提出する。そうして東海道沿道諸藩が勤王一色に染まったおかげで、新政府軍は東海道を難なく踏破し、戦いを交えることなく江戸へと軍を進めることができたというわけです。また、勤王誘引以後の明倫堂には、情勢報告をしたり軍事的指揮を受けたりするために、東海道沿道の勤王諸藩から様々な人物が訪れました。明倫堂は教育機関であるのみならず、幕末東海道の情報収集センター・参謀本部としても機能し、一躍政局の舞台となったのです。

(2) 明倫堂の廃校とその後

 明治2年(1869)、藩官制改革に伴って明倫堂の職制は大きく変化しました。まず、督学を廃し、新たに学校監をトップとし、科目の座順を皇学・漢学・武学に改めました。加えて、明倫堂自体の名称が単に「学校」という呼称に改められました。この際、新たに洋学の教授及び助教が置かれ、明治3年には藩立洋学校が設立されています。この洋学校では仏学と英学を教えていました。

写真2:明倫堂跡(現在の名古屋東照宮)

 ところで、明治4年7月、廃藩置県直前に藩庁は小学校開設の布告を出しています。これを引き継いだ名古屋県は、学校(旧明倫堂)の下等生たちをこちらに移し、さらに士族に限らず庶民一般の入学も企図した新時代の初等教育機関を創り上げるつもりであったのですが、庶民の入学は少なく、長くは続きませんでした。その後、名古屋の初等教育は庶民が設立の基底をなす「義校」に引き継がれ、学制発布後、県によってこれらが公認されていくことになります。

 話を明治4年に戻すと、7月の廃藩置県によって同月28日に学校(旧明倫堂)は廃止となりました。下級生徒の引継ぎ先は上に述べた通りですが、上級生徒の多くは、この時廃止されなかった洋学校に移っていったとされます[2]。しかしながら、洋学に対して反発を抱く層は依然存在し、旧明倫堂に代わる教育機関が求められていました。名古屋県は同年10月、新たに「中学校」を設立し、明倫堂の漢学の伝統はここに引き継がれることになります。この中学校には士族のみでなく、庶民一般の入学も許されていました。そして、中学校開校に伴い、洋学校も中学校の一分科と見なされるようになりました。
 このように名古屋県では中学校を設立して明倫堂の教育伝統を受け継ぎつつ、新時代の教育に対処しようとしたのですが、明治5年8月の学制発布によって府県の学校は一旦ことごとく廃止されることになったため、この中学校も同年9月に廃校となりました[3]。これにより、明倫堂の伝統を受け継ぐ漢学の学校は全く廃絶し、元教授らが興した私塾の中に細々とその命脈を保つのみとなったのです。

 え!ここで明倫堂の命脈が絶たれたってことは明和高校は何なの?となるわけですが、まあ、実際「何なの?」って感じです。明和高校が明倫堂由来と言っているのは、この後の明治32年、尾張徳川家が設立した私立中学校が「明倫」の名称を受け継いだこと、その一点に命脈を見出しているわけで、調べている限り、戦前期に明倫中学校が明倫堂の末裔を自認していたとは思えません。明倫堂由来言説は、明倫堂開学二百周年において創出された「伝統」だと筆者は思っているわけですが、顕彰史・記憶史としても興味深いこのお話は、別の機会に論じてみることにしましょう。

(3) 明倫堂聖堂のその後

 最後に、明倫堂の建築史的意義に触れたいと思います。実は、明倫堂の聖堂建築は現存していまして、現在は岐阜県羽島市永照寺の本堂として岐阜県の文化財に指定されています。この現存する聖堂は、天明7年(1787)に明倫堂の学舎の東隣に創建されたものでした。
 聖堂建築は一般的に何らかの点において中国風の異色を表現するのですが、明倫堂聖堂は入母屋妻入である点以外に、ほとんど一般的寺院と相違なく、かえってこれが聖堂建築衰減期の遺構としての「特徴」を示しているといえます。
 明倫堂聖堂は戦前まで、その移築先が甚目寺であるという説が流布していましたが、その後の調査・研究によって、明倫堂廃校後、一旦民間に払い下げられた後、明治7年(1874)に1000円で売買契約が結ばれ、翌年、永照寺本堂として竣工したことが明らかにされています。

写真3:明倫堂聖堂(現在の岐阜県羽島市永照寺本堂)

 全3回にわたってお届けしてきた「シン・明倫堂史」、いかがでしたか?「シン」と言っても、実際、筆者が新しく明らかにしたのは明和高校の明倫堂由来言説のところくらいで、あとは参考文献をこねくり回しただけですが、皆さんにとって、教科書でもwikiでも校史でも見たことがなかった「シン」事実が紹介できていたら満足です。
 冒頭でも記し続けていた通り、2023年5月1日(正確には旧暦にしなきゃいけないので多少ズレるんですけど)、明倫堂は開学240周年を迎えます。こうして明和史研究者が明倫堂開学記念と銘打って何かをすること自体が、明和高校明倫堂由来言説をゴリゴリに再生産することになってしまってはいるのですが、筆者はそれをわかってやっているというところで見逃してやってください。いつか、校史に載ることを願って。



[1] 毅堂自身は昌平黌出身のため朱子学者でした。
[2] 洋学校が廃止されなかった理由としては、名古屋藩時代にすでに外国人教師の雇用契約を結んでおり、この年の8月から赴任予定だったためと推測されます。当時、学校に通っていた加藤高明も、この時洋学校へ移っています。
[3] この際、分科となっていた洋学校は外国人教師の雇用契約があるため、愛知県がその存続を願い出、それが認められました。のちに成美学校、愛知外国語学校、愛知英語学校、愛知県中学校(現:愛知県立旭丘高校)へと順次引き継がれていきます。ですので、実は明倫堂の末裔って旭g…ゴホンゴホンッッ

写真
1:徳川美術館『尾張の殿様物語』(2007年)より引用
2・3:筆者撮影

参考文献
愛知県教育委員会『愛知県教育史』第一巻(愛知県教育委員会、1973年)
同 第三巻(愛知県教育委員会、1973年)
安藤直太朗「尾張明倫堂聖堂の移築始末」(『東洋文化:東洋文化振興会々報』第12号、1965年)
上野恵「東海道筋における尾張藩の『勤王誘引』活動-『勤王誘引書類』の分析を中心に-」(『徳川林政史研究所研究紀要』第42号、2008年)
永照寺|羽島市観光協会、http://hashimakanko.jp/store/eisyoji/、(2022/6/27閲覧)
神辺靖光・米田俊彦『明治前期中学校形成史』府県別編4 : 北陸東海(梓出版社、2018年)
城戸久「尾張明倫堂聖堂の建築」(『建築雑誌』第652号、1939年)
徳川美術館『尾張の殿様物語』(2007年)
明倫堂開校二百年記念実行委員会『愛知県立明和高等学校二百年小史』(1983年)
「明和会」記念誌編集委員会『愛知県立明和高等学校史』(1998年)
本山幸彦『明治前期学校成立史』(未来社、1965年)

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