【いちばんすきな花・感想】いちばん好きな四枚の花びらについて
『いちばんすきな花』11話を見た。
今回は「勝手に何かをあげる」シーンがよく目に止まった。
冒頭から、紅葉のために椿は風呂を入れ、ゆくえはシーツを洗う。このみは赤田を連れてくるし、楓は純恋を連れてくる。紅葉のバイト先の調子に乗った大学生二人組も謝罪のプレゼントを持ってきた。セクハラされる夜々を嘘の用事で助け出す同僚(相良大貴という名前らしい)まで描き出される。
(言われてもいないのに)勝手に何かを(して)あげる行為は喜ばれることもあれば、うざがられることもある。そしてそれが人と人をつなげるものなのではないかと思った。
このドラマを語る上で重要な部分は引用したこの記事にあるように、「どっちでもいいんじゃない」という態度で他人に必要以上に干渉しないことであると思う。干渉されることが嫌で、それゆえ他人に対してそれほど干渉しない四人が集まる。その四人の姿を映すことで、必要以上に干渉しないこと、そして干渉するのではなく理解することの大切さを訴えたドラマ。
とはいえ、あの四人のマグカップはゆくえが勝手に買ってきたものだ(と記憶しているけど違ったらすみません)し、他の三人が勝手に椿の家にやってきて勝手に過ごすということが当たり前になっていた。そしてそれがあの四人にとっては喜ばしいことで、あの四人を友だちにしたものだ。
干渉されたくない四人を描くことで、相手の意思や意見を聞かずに勝手にあげることが大事だという本題とは真逆なテーマも浮かんだのではないかと思う。
ありがたく貰う時もあれば、もう持っているしと言って貰わない時もある。イヤイヤにでも受け取る時もあるし、いらないけど嬉しくて貰う時もある。
話をし、価値観をすり合わせることは大切だ。けれどそれと同時に話をせず勝手に何かをあげる行為も大切だろうなと最終話を見て感じた。
そして、作り手はこのドラマで描かれている生きづらさをとても冷静に考えているのではないかとも思った。
これまでは過剰なくらい彼らの思想や自己認識、思考に寄り添ったもので、モノローグも多かった。けれど最終話にして四人以外の他者を含めた世界を描き、ドラマ自体をとても内的なものからオープンなものに変えたように思う。
引っ越しの準備を終えた際、四人はそれぞれ床に寝そべる。その姿はまるで花びらのようだった。一枚一枚が存在し、その四枚が向き合う。そしてそれぞれがバラバラに散る。このドラマのプロセスをそのままなぞったようだった。そして椿が家から出ると同時にカメラはまるで四人のいた部屋に入っていくようにズームする。幼少期の四人は出ていく四人を見送っているようで、視聴者を迎え入れているようでもある。四人の毛繕い的な世界観が終わりを告げ、オープンな世界が始まる。
そのオープンな世界では彼らの悩みは自意識過剰、頭の中の出来事でしかない。それは紅葉が同窓会から抜け出したシーンで、周りのリアクションがほとんどなかったところに現れている。きっと紅葉は自分一人がその会を抜け出すとネガティブなリアクションが返ってくるのではと不安を抱えていただろう。けれど他者からすれば紅葉も所詮他者であり、一人抜けるくらい大したことではなかった。自分の頭の中では自分が中心であり、自分が大きな影響を他者に与えてしまう気がする。けれどそれほど世界は自分中心ではない。
オープンな世界というのは場所にも現れている。四人は四人だけの家ではなく、カラオケやカフェ、家具屋といった場所で集まるようになった。
そして最後、四人が家具屋で集まっているシーンで椿が「みんなの成長ちっさ」と言う。これはもちろんみんなの成長はちっさいけど、それが僕たちにとっては大切だよねという意味もあるんだろうけど、大多数から見ればちっさいことを扱っているという意識が作り手にあるからではないかと思った。そうしたメッセージが作り手から出されたのは世間の反応もあってだろうし、それを予想してのものでもあるだろう。
『いちばんすきな花』はちっさいことを扱っている。ちっさいことをちっさいと思える人たちにとっては大げさなドラマだ。でも、だからこそ『いちばんすきな花』はちっさいことをおっきなこととして抱えている人にとっては大切なドラマだ。
あとビールのCMが多すぎ。Tverのせいかもしれないけど。
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