トーク力について
トーク力とは何であるか。時々考える。よくラジオ番組の感想ツイートなどを読んでいると「このパーソナリティーはトーク力あるよなあ」などと書かれている。果たしてトーク力とは。
立て板に水。マシンガンの如く次から次へと言葉を吐き出して喋りつづけるパーソナリティーを指して「トーク力がある」と評している例をよく見る。あながち間違いではないだろう。流暢に喋ることが出来るのもトーク力のひとつかも知れない。でも、話す速さと量が全てではないだろう。やはり、話す内容つまり話の質も高くなくては。近年はどうもこの話の質がおろそかにされている傾向が強い。隙間なくビッシリと喋りつづける人ほど注目を浴びやすく「すごいトーク力」となっている。
だが、僕のような昭和ラジオ世代から見るともうひとつ物足りない。速くたくさん喋るより、じっくり聞かせてくれる人の方を好む。たとえば浜村淳さん、鶴瓶師匠、谷村新司さんなど。僕を深夜ラジオの世界に案内してくれた人たちだ。今日あった出来事であれ、視聴者からのおたより・ネタはがきであれ、自分自身の考えであれ、彼らが話すと知らず知らずの内にグッと引き込まれて聴いている。CMに入るとホッと脱力している自分に気づく。聴かせる力が強いのだ。これがトーク力ではないだろうか。
必ずしも喋り方が流暢である必要はないと思うのだ。たとえば「ナンノこれしきっ!」を放送していた頃の南野陽子さん。まだまだアイドルで若かったナンノ。自分でも「喋りがとっちらかってて」みたいなことを言っていたけれども、彼女はとにかくリスナーに分かってもらおうと必死で努力していた。今思えば、放送作家さんに手伝ってもらっていたのかも知れないけど。話そうとしている内容の表現をあれこれ変えたり、例え話をたくさん使ったり、頑張ってた。未完成であるがゆえに、何とか分かってあげようとこちらも力が入る。これもひとつのトーク力。その甲斐あって、その後、南野陽子さんの放送するラジオ番組はどんどん面白くなって行った。
ひとつ「これはトーク力ではありませんよ」ということを言っておくと。よくテレビなどで、他人の意見を聞きもせず自分の言いたいことだけをベラベラ早口でまくしたて、自分の意見が通らないと見るやすぐに話題を自分勝手に変えて喋りたおしてる輩が居るが、あれは全く「トーク力」ではない。勘違いしないように。あれは議論にも討論にもなっていない。あそこには何の「トーク」もない。特に若い人はあれを見て勘違いしないように。ああいう輩にはトーク力の欠片もないのだ。
つきつめるとトーク力とは他人の話を聴く力ではないだろうか。相手が話している真意を汲み取り、自分の意見を話す。それを聴いた他人が返してくる意見を受け取り、また自分の意見を提示する。昭和の時代、僕が魅力的だと感じていたラジオのパーソナリティーたちはそういった力が卓越していたのだ。彼らは世間の声を聞き取り、僕らに話しかけていたのではないだろうか。
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