『アフターサン』と、父の残像をめぐって
去る12月8日は父の20回目の命日だった。
雪がうっすらと積もる岩手県の盛岡市にある小さなお墓の前で、妻と息子を連れてはじめて手を合わせた。
自然と言葉が出てくることに驚いた。墓石に語りかけるのは映画の中だけの創作だと思っていた。
私の父はアルコール依存症に陥り、晩年は目が座り、壁に体を預けながらよろめくように歩き、やがて若くして棺に収まった人だった。当時の私には、彼をそのような姿でしか思い出せず、幼い頃の「幸福な父」としての面影を顧みることは、長らく封印していた。
アルバムを開けば、そこにはカメラに照れくさそうな笑顔を向ける父、揃いのキャップを被り、まだ小さな私を肩車し、まばゆい日差しの中で笑っている父が映っている。しかし、その光景はあまりにも幸福で、晩年の惨めな姿や、最終的に彼を追い詰めた苦悩との落差があまりに大きく、私はその「かつての光」に触れることを恐れていた。
だが、昨年、結婚式のためプロフィールムービーを作る必要が生じ、ようやく重い腰を上げて父との思い出が詰まった古いアルバムを開いた。そこには、私が避け続けた父の「知られざる顔」があった。
まだ若く、人生を謳歌し、子供を慈しむ父親像がそこに眠っていた。その写真は、笑顔を失い、酒に溺れ、孤独や不安に押しつぶされていった晩年とはまるで別人のように見えた。
記憶の再構築――シャーロット・ウェルズ監督の『アフターサン』は、まさにその繊細な過程を描き出している映画である。
A24が生み出す異色作のひとつであるこの映画は、31歳の若い父カラムと、11歳の娘ソフィがイギリスからトルコのリゾート地で過ごす夏休みを、淡々と、しかし鮮烈な余白を残しながら映し出す。
説明的なセリフはほとんどなく、ホームビデオの断片、陽光降り注ぐプールサイド、リゾートホテルのありふれた部屋、そしてクラブのフラッシュバックが、あの「かつての夏」を繰り返し呼び出す。視点は、父と同じ年齢に達した大人になったソフィへと折り返し、当時は見えなかった父の内面を探るという構成になっている。
私は医師として患者を失った悔恨を抱えながら生きている。「あの時、ああしていれば救えたのではないか」「もっと良い治療法があったのでは」という思いは、医療の現場で誰もが抱く苦い後悔だ。
同様に、父との関係においても「あの時、もし父の心の傷に気づいてやれたら」「孤独に苦しむ父の隣で耳を傾けられたら」と考えずにはいられない。その頃の私たちはあまりにも幼く、父が日々どんな不安と戦っていたかを想像することすらできなかった。
大人になり、父が息絶えた年齢に刻々と近づく今、私は改めて心から実感することができている。父はきっと、孤独と戦い、自宅のローンや小さな会社の従業員を抱え、社会に迎合し媚びへつらう中で疲弊し、出口のない苦悩に押し潰されていたのではないか、と。子どもの目には頼もしかったその背中も、実は脆く揺らぎ、不安定で、救いを求めていたのかもしれない。
『アフターサン』が映し出すのは、まさにその「再解釈」のプロセスだ。かつてはただ眩しかった夏の日々。ビデオカメラが捉えた父の笑顔は、今になってみれば固く、消えかけの光のようだ。子供に最高の思い出を与えようとした「最高にクールで頼れる父」は、周囲には見せられない不安や自己否定感を抱えていたかもしれない。ソフィは、あの夏を見直すことで、父にとって何が欠落し、何が重荷となっていたのかを考え始める。そこには「当時は知り得なかった父」が存在する。
私にとって父のアルバムを開く行為は、まさに『アフターサン』におけるソフィの行為だった。アルコールに支配され、最後は潰えた父しか知らなかった私が、写真の中の若く穏やかな父に再会する。そうして、「本当の父」は一枚の写真やひとつの記憶では語りきれず、光と影、幸福と苦悩が積み重なっていたことに気づかされる。見えなかった深層に触れることで、私は父を単なる「痛ましい過去」から、「等身大の人間」として理解し直そうとしている。
もし、あの時、私が父の苦悩に気づき、言葉をかけ、心の隙間を少しでも埋めることができたなら――そう思っても遅すぎる。けれど、この再解釈は決して無意味ではない。その試みは、私たちを過去の呪縛から解き放ち、痛みと和解し、過去と現在を織り直す契機となる。『アフターサン』は、そうした過程を静かに、けれど確かに描き出す。
私が今、この作品に深く共鳴するのは、自分が父の年齢に近づき、幼い息子を自分の命よりも大切だと感じるようになり、医師としても人生の苦みを噛み締めたからだ。過去は決して変えられない。けれど、過去の記憶や映像に新たな光を当てることで、人は異なる輪郭を見出すことができる。そうして「父」という存在が、ただの悲劇でも、ただの幸福な幻影でもなく、ひとりの不完全で葛藤だらけの人間として再構築されるのだ。
『アフターサン』は、そうした再構築の物語である。光り輝く夏休みと、そこに潜む影、その二つの狭間に私たちは佇み、静かに問いかける。
「もし、あの時、彼の心を知ることができたなら?」
その問いに明確な答えはない。けれど、問いを抱き続けること、そして古いアルバムをもう一度開くことこそが、失われた時間を織り直し、今日を生きる私たちを深く豊かにしていくのではないだろうか。