〜ありのままの自分を愛せるまでの軌跡〜Vol.2

日本へ

こうしてハワイでの母の自殺未遂を皮切りに、父と母の泥沼の闘いが始まった。

一度は、なんとかもう一度やり直そうと三人で一緒の家に住むも、「ボダ子」の母の疑心暗鬼は強まる一方

亡くなった父いわく、

「会社の下に来て、双眼鏡で俺が(女と会わず)ちゃんと会社に来ているか覗いてチェックしていた(それ、ストーカーだしw)」

「『今から死ぬから。』と脅迫の電話を会社にして、父が慌てて自宅に帰宅すると、ガスで一酸化炭素中毒による自殺をしようとしていた」

(ちなみに、こうした自殺をほのめかすスタイルは私が大人になっても続いた母の常套手段w)」

と、まぁ、毎日がガチのサバイバル。父の精神はやがて疲弊し、別の日本人女性に癒しを求め、家を出て行った。

その女性の家をどう突き止めたのか分からないが、真夜中に母が私を連れて、その女性宅に押し掛けた時の記憶はうっすら記憶に残っている。

車の後部座席に横になり、視界にヒューン・ヒューンと流れていくオレンジ色の高速道路の電気が、今でも脳裏に残っている。

離婚調停

いよいよ離婚調停に突入した。

母は死んでも合意しなかった(ってか、それまで何回も死のうとしてたじゃんっていう…)。

この頃(当時4歳~5歳)、母の精神状態があまりに不安定な為、母の親友や妹(私の叔母)が心配し、

「親のゴタゴタに子供を巻き込むべきではない」

と、色んな方のおうちに“お泊り会”に行かせて頂き、私は意外に幸せに暮らしていた様子が当時の写真を見てもうかがえる。

特に、叔母には歳が変わらない二人の男の子(従兄弟)がいて、きっと大変な育児の最中だったにも関わらず、夫婦でわが子のようにかわいがってくれた。

一人っ子だった私は、賑やかな毎日が眩しかった。

最後の賭け

両親の離婚調停は不調和に終わった。

母は絶対に離婚には応じず、ここで、さらなる「賭け」に出た。

亡くなった祖父から相続した実家の敷地内に、私達親子三人で住む為の、洋式の一軒家を建てたのだ(33歳で、どんだけのローン組んだんだ?!)

イギリス人の父には、こういう二世帯住宅のような日本的感覚は全く理解できない。

「お願いだから、その場所だけはやめて欲しい」

しかし、別の場所に土地まで購入する資金調達をするのは難しく、母はそこに豪邸を建てることを強行し、イギリスから船で持って帰って大切に保管していた家具一式揃え、家が完成したその日に父を呼んだ。

「ここで三人で住もう」

と母は言った。

私は、ふかふかの絨毯みたいな生地でできた、茶色いソファーに座る母の膝の上に乗っていた。

紫色のニットのワンピースの下に、フリフリのついた長いソックス、パッチンと留める黒いエナメルの靴を履いて、足をぶらぶらさせながら。

両親がどんな会話をしていたかまでは覚えていない。ただ、新築の香りがする白い家の30畳近い応接間で、父と母は長い間、真剣に話し合っていた。

突如、父は険しい顔をして、すくっと立ち、部屋から勢い良く出て行った。家のドアが、

バタン!!

と大きな音を立てて閉まる音がした。

母は慌てて私を膝から下ろし、玄関のドアを開けっ放しにしたまま、泣きそうな顔で走って追いかけて行った。

たった一人、家に残された私は、とても怖くなった。

自分の周りで何が起きているのか、正確に理解は出来なかったが、幼心に、何かとても大切なものが「ガラガラ」と崩れる音だけははっきり聞こえた。

母が戻ってくるまでの時間がどのくらいだったかは分からないが、とても長い時間に感じた。

それまで、特に親の前では感情を出す子ではなかったが、私は一人、玄関で大声で泣き続けた…。

一家崩壊

この日を境に、父が私達と一つ屋根の下で暮らすことは永遠になくなった。

とてつもない豪邸の新居に、母と私の二人きりの生活が始まった。

空間が、寂しさを強調していた。

両親が実際、いつ正式に離婚したのかも知らない。ただ、今思えば、幼い頃の出来事なので、はっきりとした記憶が無いのが幸いだったと思う。


そして、数奇なことに、日本にはここからバブル景気が到来する。

これが、母の人生を一気に好転させ、漏れなく私にも目まぐるしい変化が立て続けにやって来ることになるのだった。
            to be continued…

                                  (Vol.3〜母の恋人登場とお受験戦争のゴング)


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