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EMANが堀田量子第7章を書いてみた

 この記事は、堀田量子の第 7 章と同じ内容を「私ならこういう感じに書く」という試みです。これを読めば理論の見通しが良くなって堀田量子の教科書を読みやすくなるかもしれません。数式に用いる記号は改変してあります。例えば、教科書の方では測定対象を S 系、測定器系を D 系としていますが、この記事では第 4 章から一貫して A 系と B 系という表現をしています。
文体は「EMANらしく」常体にしておきます。

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 今回は例外的に 7.3 節までの内容を記事にしております。7.4 節の内容は含まれておりませんのでご注意ください。7.4 節の内容は「小澤不等式の導出」という別の記事としてまとめました。

 それでは、どうぞお楽しみください!


射影仮説

 いよいよ観測とは何かという話に入る。観測するという行為が何なのかというのはどうもよく分からない。「観測とは観測対象から情報を取り出すことである」と聞けば、「おお、なるほど!」と思ったりはするのだが、観測するという行為の一体何が対象の状態を変えてしまうのかという部分がよく分からないし、観測している過程のどの時点でそれが起こるのかというのもはっきりしない。

 今回の話によってそのあたりがある程度すっきりと理解できるようになるだろうと思う。しかし完全に納得できるかどうかについては保証できない。別の種類の疑問に置き換わるだけだという可能性があるからである。しかし、理解を一歩先へと進めることはできるだろう。

 まず、従来の量子力学の中で既に良く理解されていることについて説明しておこう。これは量子力学の公理として採用されていたりする。

 まず、対象の状態がベクトル$${ \ket{\psi} }$$で表されているとする。そして、これは何らかの基底ベクトル$${ \ket{m} }$$と複素係数$${ a_m }$$とを用いて次のように展開できる。

$$
\ket{\psi} \ =\ a_1 \ket{1} \ +\ a_2 \ket{2} \ +\ \cdots \ +\ a_n \ket{n} \tag{1}
$$

 観測するというのはこのような何らかの基底ベクトル$${ \ket{m} }$$の組を用意して、$${ \ket{\psi} }$$が実際にはその中のどれであるかを無理やり特定しようとする行為である。観測の結果、$${ \ket{\psi} }$$はその中のいずれかであることが判明する。$${ k }$$番目の状態$${ \ket{k} }$$であることが判明する確率はその複素係数$${ a_k }$$の絶対値の 2 乗で表される。それは次のようなベクトルどうしの内積の 2 乗で表すこともできる。

$$
\begin{aligned}
p(k) \ &=\ \big| \braket{k|\psi} \big|^2 \\[3pt]
&=\ \big| a_k \big|^2 \tag{2}
\end{aligned}
$$

 そして観測後には$${ \ket{\psi} }$$は$${ \ket{k} }$$へと変化してしまっている。これを「射影仮説」と呼ぶ。仮説と呼ばれてはいるが、すでに数え切れないほどの実験によって確立された事実である。しかしなぜこのようなことが起きるのかがうまく理解できずにいたために、「これを理論上の前提として仕方なく受け入れましょう」というニュアンスで「仮説」と呼んでいるのである。

 ちなみになぜ「射影」と呼ぶかと言えば、これは数学用語に由来している。数学における射影の定義を正確に説明しようとすると面倒なことになるので簡単なイメージだけを言っておくことにしよう。3 次元の実数ベクトルを想像してほしい。これに対してある方向から平行光線を当てて、その影の向きがどれか一つの座標軸$${ \ket{m} }$$の影とぴったり重なるようにしたときの影の長さというのが、ベクトルを展開したときの係数$${ a_m }$$に相当する。射影というのはそういうイメージから来た用語である。しかし影を映す壁が座標軸と平行でないといけなかったりして正確にたとえるのが難しいのである。

 さて、今回の議論で使っているのは複素ベクトルであり、それを展開したときの係数$${ a_m }$$も複素数なので、影の長さというたとえはそのままでは使えない。複素数は大きさを論じることが出来ず、絶対値の 2 乗を使う必要があるからである。だから、「まるで影の長さの 2 乗に似たようなイメージだ」ということである。

 今回の話ではこの射影仮説を導出してしまう予定である。つまり、もう仮説でも何でもなくなるのである。しかも、この射影仮説というのが「従来考えられていたよりずっと広い観測という概念」のほんの一部に過ぎないということも説明するつもりである。

 射影仮説を導出してしまえるというのはすごいことなのだが、種明かしをすれば、我々は議論の出発点を従来の量子力学とは別のところから始めたのであって、代わりに別のものが公理となっているということである。第 2 章や第 3 章で説明したこの理論体系がそれに相当していて、ほぼ同等のことを既に紛れ込ませているのである。確率がどうだのこうだの言う話は最初から出てきていたのだった。

 さて、この有限次元の状態$${ \ket{\psi} }$$を無限次元に拡張すると関数としてとらえることができて、それが波動関数である。それについてはこの後の章で詳しく話すことになるだろう。とにかくこの波動関数というものは空間に広がった確率の波のように解釈される。すると、無限の距離にまで広がった確率の波が、位置の観測によって一瞬にしてある一点へと集まってくるというイメージになる。これを「波束の収縮」と呼ぶ。あまりに非現実的なイメージであるために、量子力学が抱える未解決問題であるかのように言われることがあるが、この教科書の解釈に従うならばそういう困難は少しも生じない。

 それについてもこれから納得の行くように説明して行こうと思う。

観測とは何か

 観測とは何かというのは、実はそんなに難しい話ではない。観測対象を A 系とし、それを測定する装置を B 系としよう。観測とは、A 系と B 系の間の相互作用である。そう理解してしまえば、観測中に起きる変化、及び、観測終了時点までに起きた変化は A 系と B 系の合成系に働くユニタリ行列として表せるだろう。そして相互作用が終わった後では A 系と B 系は何らかの量子もつれ状態にある。

 相互作用を終えた後であっても A 系、B 系の内部ではそれぞれに何らかの変化が起きる。B 系というのは測定器であるから、人間が測定結果を読みやすくするための変化が起きるように仕組まれていることが多い。ここであまり大袈裟な仕組みを考える必要はない。例えばシュテルンゲルラッハの実験で使ったスピンの測定では粒子が不均一磁場を通過した時点で相互作用は終わっており、そこで受けた力によってごくごく僅かに軌道の方向が変化している。しかしその変化はまだ直接読み取れるほどに大きいものではない。そこから長い距離を飛んで行ってスクリーンに当たる頃には到達地点の差は大きくなっていて、顕微鏡を使って人間が識別できるくらいになっているだろう。B 系で起きる変化というのはその程度の単純なものでも構わないし、電子回路を使った増幅のようなはるかに複雑な仕組みを考えてもいい。

 そして、そのあとで観測者が測定器の目盛りを見る。つまり B 系の状態を知ったことになる。このとき、観測対象である A 系の状態もそれに応じたある状態に変わっていることになる。密度行列$${ \hat{\rho} }$$というのは対象に対して観測者が持っている知識を表しているのであり、B 系を見ることで A 系の状態を表す密度行列の内容までもが変化したというわけである。

 ここまでの説明を聞くと、この解釈に対して疑いが生まれるかもしれない。これは観測者が観測結果をあらかじめ知らないというだけのことであって、実際には「誰から見ても同じであるような客観的な事実」が存在しているのではないだろうか? 例えば、他の観測者 Y がもっと詳しく状態を知っていても、当の観測者 X が知っていなければ、観測者 X にとっての密度行列は情報が不完全であることを表したままだということになる。そうなると、密度行列というのは客観的な事実を表せていないことになるのではないかという気がしてくる。実際その通りであり、密度行列というのは客観的な事実を表すようなものではない。

 すると、密度行列というのはこの世界の物理法則を表すためには不完全な概念なのではないかと思えてくる。しかし誰にとっても共通の状態というものがもしあるとすれば、それは古典的な存在だということになるだろう。そういう客観的な共通の状態が存在していることは、量子力学的な現象がベルの不等式を破っていることが実験で確認された時点で否定されてしまっているのである。

 念のためにもう一度繰り返しておこう。波動関数などで表される重ね合わせ状態を含めた「状態」というものを保持している何らかの客観的な存在がこの世にはあるのではないかという考えはごく自然な発想ではある。しかしそれは「隠れた変数理論」と何ら変わらない思想であることに注意しよう。そういうものは残念ながら否定されてしまった。

 この堀田量子の教科書では、それぞれの立場によって世界の見え方が違っているのは何ら問題ではないという主張のもとで書かれている。またこの世界は全て情報によって成り立っているので、客観的な存在などを想定する必要もないという主張である。複数の可能性の中から観測によってある状態だけが得られたその理由について気になる人もいるかもしれないが、それについてはそういうものだと受け入れるしかないようである。

 一方、量子力学のそういう不可知の部分が気になって仕方がないという人たちもいて、何とか穴を開けてもっと多くのことを知ることができないものかという努力が続けられていたりもする。それで色んな別解釈が作られたりもしているのだが、それぞれに弱点があるのが現状である。

 この堀田量子の教科書が主張する情報理論的な解釈には論理的な弱点は見当たらない。しかし不可知的な部分を人類の宿命として受け入れるのが難しいというところが弱点といえば弱点だろう。もしこの世界が本質的にそういう不可知的なものであるのならば理論の弱点だとも言えなくて、この世の姿をそのまま表した理論だと言えるかもしれない。

 この段階でこの解釈を受け入れる気が失せてしまっている人もいるかもしれない。しかしそうだとしても、他の解釈を考える前にこの解釈での考え方を学んでおくのは役に立つと思う。量子情報理論の進展によって考え方が洗練されてきたために、一昔前と比べて理論の見通しが良くなってきているからである。

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