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量子力学の意識

量子力学の説明をするときに「意識」という単語を使うのは、出来るだけ気を付けて避けようと思う。どうもこの単語を聞いた途端に未知なるものへの憧れが触発されて、心が神秘的な世界へと飛び立ってしまう人がかなり多いようなのである。

そんな神秘思想を語っているつもりは全然ないのだ。何か代わりとなる地味な単語を探した方がいいかもしれない。要するに、何かを観測したときに、その結果が選択肢の中のどれであったかを認識するものがあるというだけのことである。それは人間でなくても構わない。観測の結果として複数の豆電球のいずれかが光るというのでもいいし、機械仕掛けで結果を書いた旗が上がるというのでも構わない。それらの装置は測定結果がどれであったかを「認識」して動作したわけだ。

この「認識」という単語も、何やら精神的な高度な働きを感じさせてしまうのであまり良いものではない。結果が選択肢の中のどれであるかを確認した物体があるよね、というだけである。そしてそれは人間であっても構わない。人間はそれほど神秘的な存在ではなく、申し訳ないがただの物体であり、ちょっと複雑な自動機械であるというだけだ。

あまりこういうことを言うと、「いやいや、人間はそんなに単純なものではなくてもっと霊的な存在だよ」と考えている人たちと対立してしまいそうになるわけで、そんなことで量子力学に反発心を抱かれてしまうのはできるなら避けたいのであるが、曖昧な態度でごまかすのも良くないだろう。残念ながら量子力学はそんな神秘的なものとは無縁なのだ。

いや、無縁だと言ってしまいたいのだが、これまで色んな人々が神秘的な空想を掻き立てられて色々なことを書いたり話してきた歴史があるので、実のところ量子力学は神秘思想にまみれているわけである。今では理論がしっかり整備されて、残酷なほどに神秘的な要素が入る余地がなくなってきたのだから、そろそろそういうものから完全に離れなければならない。

100年前は確かに、人間の意識というものを特別扱いする人が多かった。自分たちのことを「万物の霊長」などと呼んでいたくらいである。意識を持つのは人間だけであって動物にはそういうものは無いと考える人も多かった。だからこそ、「シュレーディンガーの猫」のたとえ話の猫を人間に置き換えた「ウィグナーの友人」という別バージョンのたとえ話が作られたりもしたのである。最近は多くの動物にも立派に感情があるし、昆虫にすらあると考えられるという科学的な証拠が提出されてきている。かつては人間以外は自動機械のようなものだと考える人が多かったわけだが、いまや人間も自動機械の仲間ということで良いのではないかと私は思うのである。これは人間を貶めるようなものではないし、卑下しているつもりもない。いずれAIも同じ仲間に入るようになるだろう。

さて、他の物体、他の人間が観測をして何らかの結果を得たとしても、その傍にいる「私自身」にとってはまだ結果は確定していない。つまり、他人がどんな結果を得たかについてはいまだ「重ね合わせ状態」にあるわけだ。結局、私自身が、観測を行った他人から情報をもらって初めて結果が確定するわけであり、結果を得た私自身の「ああ確かに自分は結果を受け取って確認したぞ」という確信をする瞬間があるわけで、このときの気持ちを「意識」と呼んでいるだけである。私から情報をもらう別の人も、私から情報をもらうまでは同じ状況にあるだろう。

ここまで聞いてもまだ他の神秘的な説明が欲しいだろうか。そういうこともあるだろう。まだ他の説明の仕方もあると思うので、思い付くまで気長に待っていてほしい。

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