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EMANが堀田量子第6章を書いてみた

 この記事は、堀田量子の第 6 章と同じ内容を「私ならこういう感じに書く」という試みです。これを読めば理論の見通しが良くなって堀田量子の教科書を読みやすくなるかもしれません。なるべく教科書に出てくるのと同じ数式を使うようにしていますが見やすくするための記号の改変などがあります。式番号は教科書とは合わせてありません。また、教科書に載っている全ての話が入っているわけでもありません。少し情報量を下げてあります。文体は「EMANらしく」常体にしておきます。

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 ではお楽しみください。

クォンタム・チャネル

 量子状態$${ \hat{\rho} }$$を別の状態$${ \hat{\rho}' }$$へと変えるような物理操作を次のように表すことにする。

$$
\hat{\rho}' \ =\ \Gamma [\hat{\rho}] \tag{1}
$$

 この$${ \Gamma }$$を「量子通信路」(quantum channel) と呼ぶ。この用語は「量子情報」という研究分野が通信の研究から発展してきたことに由来している。量子的な情報を持った粒子をやり取りして通信に利用するとき、その経路上を行き来する過程で量子状態がどんな変化を受けてしまうかを論じたのである。元々は通信の途中で拾うノイズの話だったのだが、量子力学の本質に関わる結果を導き出すに至ったのである。

 そう言えば「クォンタム・チャネル」という響きはSF映画で聞いたことがあるかもしれない。科学者がいかにも専門的な用語を使いながらベラベラと説明するシーンとかに出てくる。内容は多分でたらめだった気がする。

アフィン性

 この$${ \Gamma }$$が持つべき性質を考えてみよう。まず、次のように表せる状態を用意しよう。

$$
\hat{\rho} \ =\ p \, \hat{\rho}_1 \ +\ (1-p) \, \hat{\rho}_2 \tag{2}
$$

 つまり、確率$${ p }$$で状態$${ \hat{\rho}_1 }$$であり、そうでなければ$${ \hat{\rho}_2 }$$であるような混合状態である。そしてこの系が$${ \Gamma }$$という変化を受けたとしよう。その後で、この系に対して$${ \hat{O} }$$という物理量を測定したとすると期待値は次のように計算できる。

$$
\langle O \rangle \ =\ \mathrm{Tr}\Big[ \Gamma[\hat{\rho}] \, \hat{O} \Big] \tag{3}
$$

 とは言え、これは状態$${ \hat{\rho}_1 }$$か$${ \hat{\rho}_2 }$$のいずれかであるものがそれぞれに$${ \Gamma }$$による変化を受けて通ってくる多数の結果を総合したものを見ているわけだから、当然次のような計算で得られる値に等しいはずである。

$$
=\ p \, \mathrm{Tr}\Big[ \Gamma[\hat{\rho}_1] \, \hat{O} \Big] \ +\ (1-p) \, \mathrm{Tr}\Big[ \Gamma[\hat{\rho}_2] \, \hat{O} \Big] \tag{4}
$$

 トレースの線形性から、係数などを全てトレースの中に入れてしまうことができて、(3) 式と (4) 式をまとめて次のように書ける。

$$
\begin{aligned}
&\mathrm{Tr}\Big[ \Gamma[\hat{\rho}] \, \hat{O} \ -\ p \, \Gamma[\hat{\rho}_1] \, \hat{O} \ -\ (1-p) \, \Gamma[\hat{\rho}_1] \, \hat{O} \Big] \ =\ 0 \\[5pt]
\therefore\ &\mathrm{Tr}\Big[ \Big( \Gamma[\hat{\rho}] \ -\ p \, \Gamma[\hat{\rho}_1] \ -\ (1-p) \, \Gamma[\hat{\rho}_1] \Big) \, \hat{O} \Big] \ =\ 0 \tag{5}
\end{aligned}
$$

 どんな測定$${ \hat{O} }$$に対してもこのことが成り立っているはずだから、トレースの中のカッコの中が 0 なのである。よって次の関係が成り立っている。

$$
\Gamma[\hat{\rho}] \ =\ p \, \Gamma[\hat{\rho}_1] \ +\ (1-p) \, \Gamma[\hat{\rho}_2] \tag{6}
$$

 左辺の$${ \hat{\rho} }$$を (2) 式を使った形に書き換えれば、$${ \Gamma }$$の持つべき性質が一つの式で表せる。

$$
\begin{aligned}
&\Gamma\big[ p \, \hat{\rho}_1 \ +\ (1-p) \, \hat{\rho}_2 \big] \\[3pt]
&\hspace{20pt} =\ p \, \Gamma[\hat{\rho}_1] \ +\ (1-p) \, \Gamma[\hat{\rho}_2] \tag{7}
\end{aligned}
$$

 この性質を「アフィン性」と呼ぶ。

 アフィン性というのは数学用語であり、線形性によく似た概念である。線形性というのは線形結合の形を変換後もそのまま保つという性質だった。しかし上の式では線形結合の係数が$${ p }$$と$${ (1-p) }$$になっている。線形結合の和が 1 であるような構造をそのまま保つのがアフィン性なのである。

 しかしもうちょっとややこしいことに、この変換$${ \Gamma }$$は$${ \hat{\rho} }$$以外の行列をも変換できるように拡張定義をしてやることができる。その際に、あらゆる行列に対して線形性を持つようにしてやることができることが証明されている。だから$${ \Gamma }$$は線形性を持つ、と表現してやることもある。

 ここであまりこのことに踏み込んでも仕方がないので、あとでアフィン性についての別の説明記事を用意することにしよう。

トレース保存性

 $${ \Gamma }$$が満たしているべき性質は他にもある。密度行列$${ \hat{\rho} }$$のトレースは 1 であるべきであった。そしてその条件は通信経路上で何らかの影響を受けて$${ \hat{\rho}' }$$に変わったとしてももちろん成立している。よって、$${ \Gamma }$$が持つべきこの性質を数学的に表現したいのなら次のようになる。

$$
\mathrm{Tr}\big[ \hat{\rho} \big] \ =\ \mathrm{Tr}\big[ \Gamma [\hat{\rho}] \big] \tag{8}
$$

 この性質を「トレース保存性」と呼ぶ。

 わざわざこんな表現をしなくても (8) 式の左辺はいつでも 1 なのだから
$${ \mathrm{Tr}\big[ \Gamma [\hat{\rho}] \big] = 1 }$$と書いてやればいいのではないかと思うかもしれない。もちろんそれでもいいのだが、この書き方にはもう少し深い意味がある。

 密度行列$${ \hat{\rho} }$$のトレースが保存するなら、任意のエルミート行列のトレースも保存することが言えるのである。トレースの値が 1 であろうとなかろうとエルミート行列ならば (8) 式が成り立つわけである。$${ \hat{\rho} }$$に限らない書き方をしておいた方が余計な条件を考慮しなくても良いから数学的に扱いやすいし、確かに「トレース保存」と呼ぶにふさわしい性質であると言えるのである。

 任意のエルミート行列でトレース保存が成り立つ理由を軽く説明しておこう。密度行列が持つべき性質は、エルミート行列であること、トレースが 1 であることと、固有値が非負であることくらいだった。任意のエルミート行列はスペクトル分解で表すことができるが、このときの射影演算子の固有値は 1 または 0 であり、密度行列と同じ性質を持っている。それゆえ、それぞれの射影演算子のトレースは$${ \Gamma }$$によって変化することが無く 1 である事が言える。また、上で説明したように$${ \Gamma }$$には線形性があることが分かっているので、$${ \Gamma }$$による変換を行ってもスペクトル分解の係数にも変化がないことも言える。よって任意のエルミート行列のトレースの値は$${ \Gamma }$$によって変化を受けないと言えるわけである。

完全正値性

 $${ \Gamma }$$が持つべき性質はもう一つある。それは量子もつれを考慮に入れたものである。

 A 系と B 系を考え、A 系にのみ何らかの物理操作を行い、それを$${ \Gamma }$$だとする。B 系に対しては何も行わないので、恒等写像$${ \mathrm{id} }$$で表すことにしよう。量子もつれがあれば二つの系の合成系の密度行列は A 系と B 系に分けて書くことができないので、仕方なくそれを$${ \hat{\Xi} }$$と表すことにしよう。これに対して起きる変化は$${ (\Gamma \otimes \mathrm{id})\big[\hat{\Xi}\big] }$$という形で表されることになる。

 このような変化後も$${ \hat{\Xi} }$$は密度行列としての条件を満たしていることが必要である。つまり、相変わらず非負の固有値を持つエルミート行列であってほしいということである。

$$
(\Gamma \otimes \mathrm{id})\big[\hat{\Xi}\big] \ \geq \ 0 \tag{9}
$$

 この条件を満たすという$${ \Gamma }$$の性質を「完全正値性」と呼ぶ。

 なお、この変化の前後でトレースが保存するべしという条件も大切なのだが、(9) 式には書かれていない。$${ (\Gamma \otimes \mathrm{id}) }$$がトレース保存性を持つことは、$${ \Gamma }$$が持つ線形性やトレース保存性を使えば証明できてしまうからである。ここではその証明を省略することにする。

シュタインスプリング表現

 ここまでに挙げた 3 つの性質は、この理論体系を成り立たせるために必要な、ごく基本的な要求である。そしてその条件を数学的な式としてまとめることもできた。密度行列がどんな変化を受けようともこれらの条件の範囲内でなければならない。この条件を満たす写像を「トレース保存 完全正値 写像」(Trace Preserving Completely Positive map) と呼ぶ。あまりに長ったらしい名前なので略して「TPCP写像」と呼ぶことが多い。

 大変ありがたいことに、このTPCP写像は必ず次の形に書けるということが証明されている。

$$
\Gamma[ \hat{\rho} ] \ =\ \underset{B}{\mathrm{Tr}} \Big[ \hat{U}_{\!AB} \, \Big( \hat{\rho} \otimes \ket{0}\bra{0} \Big) {\hat{U}}_{\!AB}^{\dagger} \Big] \tag{10}
$$

 これを「シュタインスプリング表現」と呼ぶ。

 この式の意味を読み取ってみよう。まず左辺では$${ \hat{\rho} }$$が何らかの影響を受けて$${ \Gamma[ \hat{\rho} ] }$$へと変わったことを表している。その形は右辺にあるように元々の$${ \hat{\rho} }$$を使って表せるのである。ただし、変換対象としている A 系の密度行列$${ \hat{\rho} }$$以外の B 系の存在を仮定して、B 系が何らかの純粋状態$${ \ket{0} \bra{0} }$$にあるとして、その合成系の密度行列$${ \hat{\rho} \otimes \ket{0}\bra{0} }$$を作り、その全体に何らかのユニタリ行列$${ \hat{U}_{\!AB} }$$による相似変換を施し、さらに B 系の部分トレースを行って、A 系の密度行列のみを取り出すというのである。

 これほどまでに不定の要素を入れればそういうことが成り立っていても不思議ではないかなという気もする。しかし必ずこういう形にまとめられるという保証があるのはとても助かるのである。

シュレーディンガー方程式の導出

 ここからが本番である。これからすごいことが起こる。

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