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有事と平時のはざまで生きている


先日、電車の中で怒鳴られてしまった。

日曜日の午前中、二歳の息子と一緒に電車に乗っていたときのことだった。車内はそんなに混んでおらず、座席はひと席おきで埋まっている状態で、ちらほら立っている人もいる程度。私は、二人分空いている席はないかなと探しながら、先頭車両に向かってゆっくり歩いていった。

このご時世、座席は見事に一席おきに埋まっていて、ついに先頭車両のいちばん前、運転席の前の広いスペースに着いてしまった。座れなくても、ここなら人との距離も取ることができそうだと、息子を抱っこして運転席が見える窓の真ん中に立った。

私はマスクをつけていたけれど、息子は瞬時に外してしまうのでつけていない。イヤイヤ真っ盛りの2歳児が大声で騒いで飛沫をまき散らしませんように。泣きわめいて床にころがってウイルスまみれになりませんように。そう内心ひやひやしながらも、あくまでも楽しそうな表情をキープして「あ、運転手さんいるねえ」などと小声で話しかけた。


幸運にも、息子がイヤイヤを発動することはなかった。むしろ私のほうが、息子が少し飽きたそぶりを見せるたびに、ここでグズらせるわけにはいかんとばかりに、運転席の中を見つめては「あ、あれ見て見て」とささやいていた。

そうして3分ほど経過し、もうすぐ隣の駅に到着するころになって、ドアの近くにいた女性がいきなり叫んだのである。


「しゃべんなよ!!」


びっくりした。突然、大きくて勢いのある怒鳴り声がしたので、近くにいた人はみんな一瞬固まって息をのみ、目線だけをその人に動かして、また目を逸らしたと思う。

その女性は、ドアと壁の方を向いていて少しうつむき加減、こちらは見ていない。しかし、この付近でしゃべっていたのは、どう考えても私と息子だけであり、私たちに向けてその言葉が発せられたのは確実だった。

突然の大声に、息子も身体ごとビクッとして、目をまんまるにして女性の方向を見つめた。あー、息子泣きだすな、やばいぞ、どうしよう。そう身構えると、近くに立っていたおじさんが、苦笑いをしてこっちを見つめている。「気にするなよ」と言わんばかりのやさしい苦笑い。すると、息子は私の方を振り返って、笑いながら言ったのである。


「しゃべんなよ、だって!ねえママ、あのひと、しゃべんなよ、っていった!」


あああ、息子よ、それいちばんだめなやつ…。苦笑いおじさんはさらに笑い、そこでタイミングを見計らったかのように電車のドアが開き、私はおじさんに苦笑いで会釈をしながら逃げるように電車を降りたのである。

急いで隣の車両に移って、先頭車両から見えない位置に落ち着いて息をつく。息子はあの女性が自分たちに怒鳴ったことに気づきもせず、ケロッとしていた。


私はこれまで、子連れで電車に乗って怒鳴られたことはほとんどない。数回だけ、舌打ちされたり邪魔なんだよと言われたことはあって、そのときはほんの一瞬のことでも落ち込んでしまい、数日はどんより悲しみを引きずっていた。

しかし今回は、明らかに違う。

あの女性は、子連れがうるさいとか、邪魔だとか、そういう気持ちで叫んだわけではなかった。彼女は、明らかにウイルスへの感染の可能性に怯え、苛立っていた。私たちのことが気に入らなかったのではなく、私たちが彼女に向ってウイルスを撒き散らしているかもしれない、そのことが怖かったんだろう。


彼女がどういう事情を抱えているのかはわからない。とにかく警戒心が膨れ上がっているのかもしれないし、持病があって感染を恐れているのかもしれない。高齢の家族がいるのかもしれない。この日電車に乗るかどうか何日も悩んでいた可能性もあるだろう。そこには私の知りえない理由があって、重い気持ちを引きずって乗車していたんだと思う。

もしかしたら彼女も、乗車したあと車内で人と距離を置くことのできるスペースを探して、ついに先頭車両の端っこまでたどり着いたのかもしれない。


その一方で、私たちはちょっと状況が異なる。私は普段から仕事で電車に乗っているし、息子も保育園でいろんな人と触れ合っている。もちろん感染対策は心掛けているし、電車では出来る限り人と距離を取って、人のいない方向に向かって小声で話すようにしているけれど、100%予防することは諦めるしかないと思っている。そして感染した場合のリスクが高いと思われる持病も疾患も抱えていない。


同じ電車のすぐ近くにいたのに、あの女性と私たちでは生きている世界線が全然違うのだ。あの怒鳴った女性は、うつむいて壁の方向を見て、まるで戦闘から逃げまどう避難民のようだった。飛んでくるウイルスに怯え、必死に身を隠している。

そしてその隣には、まるで戦闘なんて起こってないかのように振る舞う私たちがいる。あのとき、車内では「怒鳴られた母親と子供」と、「怒鳴った女性」が現れ、怒鳴られた母親と子供は苦笑いのおじさんに救われたけれど、でもいちばん怯えていたのは怒鳴った女性だったのだと思う。


コロナウイルスの収束は見えず、私たちはもう電車に乗らないわけにはいかない。公共交通機関は、世の中の誰もにひらかれた手段で、「嫌な人間は別の手段を使え」という論理は通用しないと思っている。

でもその一方で、あの女性が気にしすぎているんだ、と割り切れない。誰だって感染するリスクがあって、そこには命の危険があって、可能性がいくら低くても一ミリでもあるなら、怯えてしまうことを笑えない。私だって、もし子供がいなくて、自分も夫も仕事で外に出なくて、電車に乗る機会が少なかったら、少し外出するだけで強い抵抗感を抱いていたと思う。


そして私の中では、あの女性の姿が、3年ほど前の自分に重なって仕方なかった。当時私は妊娠中で、通勤電車の中で、乗客全員にものすごく怯えていた。それは、妊娠発覚時の検査で、風疹やはしかの抗体が低いことが判明しており、もしいま感染したら生まれてくる息子が難聴や失明を患うかもしれない、と知っていたからだった。

自分の体質のせいなのか、既定の予防接種をしていたのに十分な抗体が得られなかった。だから毎日、満員の電車に乗るのが怖くて仕方がなくて、でも数字で見れば可能性の低い感染のために「通勤しない方がいい」という人は誰もいなかった。はしかの空気感染はものすごく強力なので、自治体の感染情報を見てはふるえ、怯えていた。

もちろん、周りの乗客はそんなこと知りもしない。あのとき私は、誰かにさわるまい、できるだけ距離を取らなければと、身を縮めて、車両の端っこで、ぐっと息をひそめていた。私だけがまるで臨戦態勢だなと思っていたとき、優先席の近くで松葉づえでふるえながら立っている人を見て、ああ私が見えていなかっただけで、怯えながら電車に乗っている人はこれまでもたくさんいたんだと実感した。


社会にはあらゆる人が生きていて、それぞれに都合があって、その都合に気がつかないように生きることもできる。特に、公共の移動手段である電車には、その社会がぎゅっと濃縮されていて、乗客はリスクを共有し合っている。まるで、隣の人は戦争中で、自分は平和な地域に生きているような。そこでどんな態度をとるのか、ベストな正解はない。


私たちが電車に乗るのをやめるか? あの女性が乗るのをやめるか? そんなわかりやすい答えがあればすっきりできる、でもそんな答えは存在しない。すべてのリスクを排除しようとすることも、逆にリスクを無視することも、どちらも正解だとも思えない。

だって、たとえ電車からは降りられたとしても、社会から降りるわけにはいかないのだ。自分がいつ怯える側に回るのか分からない、はっきりどちらかの区別もつかない、今年はそのことを突きつけられてしまったとつくづくと思う。


私はきっとまた、息子と電車に乗るだろう。出来る限り気を付ける、大きな声で話さないよと言い聞かせる、でもあくまで「出来る限り」だ。あのときどう振る舞えばか良かったのか、これからどう振る舞えば良いのか。いまでも考えているけれど、ベストな答えはきっとどこにも落ちてはいないんだろうと思う。



あの日のことを、息子はすっかり忘れている。まだ暑いねえ、夏だねえと話しかけたら、「くがつだからあきだよ!」と言われた。

そうか、もう秋なのか。今年の秋は、いったいどんな秋になるんだろうか。







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