#16 イーユン・リー「千年の祈り」 〜この不自然な中国人像はアリか の感想

※これはポッドキャスト番組「翻訳文学試食会」の感想です


今回の本

今回のキーワード

  • べらべら喋ることは社会主義国家では命取り。かなりうっかりなお父さん

  • 職場はひとつの単位なので、お父さんが下働きになったことを知られていないわけがない

  • 娘に濡れ落ち葉、なぜ娘がアメリカで働いているか理解していない、善意の押し付け

  • 典型的なモラハラな構図。誰々のために、と言い出すやつには近づくな

  • 娘の最初の夫は中国語を話す人なのでは?

  • 伝わっていないのに、伝わっていると思う=祈り

  • なぜ母語では率直になれないのか?中国語圏の特殊な事情、国内では書けない、英語で自由に書ける

  • 核家族的な要素がひとつ欠けると家族が歪む、というのが不自然に感じる(中国は大家族)

  • 中国には孤独な人はいない?

「幸せな人がそんなに無口なわけがない!」

お父さんの暴論がすごい。こういう物言いに娘は疲れ切ってアメリカに来たんだろうなぁ……。「菜食主義者」のお父さんが暴力的なモラハラだとすると、この「千年の祈り」のお父さんは善意モラハラだろう。いずれにしても「こういうのが正しい形」という理想形があって、そこから外れることを許さない父親。物語の端々にこれは娘、キレてもいい!と思うような発言が見られる。愛はあるけど無神経。でもこういうの経験あるなぁ。「早く結婚しろ」とか「太った」とか言ってくる親戚に心底うんざりした覚えがある。なので私は完全に娘に感情移入しながら読んだ。
お父さんがカードパンチャーの女性と話していたことを「何でも話せる愛」と語っているが、これもどこまで本当なのか?例えば女性側は仕事を失う危険性を感じつつ、話を無理にあわせていた、という可能性はないだろうか?気持ちよく何でも話せていたと思っていたのはお父さんだけで、女性は疎ましく思っていたのではないか?
そう考えると、ロケット工学者から雑務係になったお父さんは、その降格があろうがなかろうが本質的にはあまり変わらないのではないだろうか。
「黙っていることが養成訓練の一部になっていても、人はいつだって話をしたいもんです」と言っているから、どのみちこの女性のことがなくても、どこかで足元をすくわれるような出来事に遭遇していた気もする。
ありもしない不倫を認めるよりは、降格をうけいれて妻子を養っていくことを選んだ。それはいいのだが、そのときこそ妻に話せば良かったのに。

イーユン・リーと孤独

この「千年の祈り」を読んだあとに、イーユン・リーのWikipediaを読んだら腑に落ちる部分があったので抜粋。

一般的な意味で、私は基本的には自分を孤独な人間だと思っています。孤独というのは、常に、一人でいることを自分で選び取るものです。「寂しい」と思うことはありますが、それは感情です。孤独(ソリチュード)と寂しさ(ロンリネス)は全く別物です。私がもっとも寂しさを感じていたのは、中国の北京に住んでいた時です。大都会ですから、どこを見てもどこにでも人がいた。もちろん中国にはプライバシーというコンセプトがありませんから、プライベートなスペースでもない。でも、あの時が一番寂しかったと思います。アメリカに行ってからは、一転、常に自分のスペースがありました。そのことで孤独を好きになりました。孤独を楽しんでいるのです。でも寂しさは楽しめるものではありません」

Wikipediaより

その他作品あれこれ

母国で感じる違和感、疎外感という意味で思い出したのは李良枝の『由熙』を思い出した。もう一度読み返したい。

『ウエディング・バンケット』は、無口なお父さんと偽装結婚式のシーンが良かった。

『ジョイ・ラック・クラブ』は小説、映画ともによく覚えている。麻雀っておじさんがやるだけのものじゃないんだ!と冒頭で衝撃を受けた記憶が。母娘のカルチャーの違いが興味深い。(寝室の足元に鏡を置くと幸せを弾き返してしまう、という母親に対してそんなの迷信だと返す娘など)

『フェアウェル』を見ると、大東先生の「中国は大家族」という言葉がよく理解できる。こちらも結婚式が盛大で本当に楽しそうだ。

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