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指揮者不在(オリンピック閉会式)

随分むかし「指揮者」って何の意味があるのだろうと疑問に思ったことがあります。


私は中学校と高校で吹奏楽をしていました。逆に言えばそれまでは、テレビやCDで聞くJ-POP以外に音楽に触れたことはありません。コンクールの課題曲をきっかけにクラシックやオーケストラの音楽がどんなものかを知りました。それで、指揮者という存在があることを知りました。

曲名とともに「指揮・◯◯」とわざわざついている。同じ楽譜を演奏するのに何が変わるわけ?それが私の率直な疑問でしたが、吹奏楽を6年やって、またある程度の常識を身につけて、指揮者の役割を今では理解しました。


オリンピックが終わりました。開会式と閉会式はまわりにうながされて一緒に見ました。さまざまな評がありますが、私はなんにせよ真剣にクリエイトする人にはリスペクトの念しかありません。終わったことはとやかく言いたくない。作ったこともない人が言うことではないと思います。だけど、指揮者不在の作品は、まるで統一感がない。世界観がない。方向性がわからない。その気付きだけは、事実として言葉にしてもいいかなと思っています。


オーケストラにとって指揮者は大切な存在です。その中で演奏したことがある人はわかると思うのですが、一曲の中でそれぞれのパートの持ち場があるのです。強弱があって、速度があって、バランスがあるのです。指揮者によってはその考える強弱と、速さと、見せ場が違うのかもしれない。オーケストラのみんなが一人の指揮者を見つめ、時に目を合わせながら、指揮者の描く世界観に近づけていく。その工程に参加して感じたことです。指揮者は拍子を刻むだけのメトロノーム的役割ではなくて、プロデューサーである。ともなると、曲の背景や原曲の持つ色々を調査する力もいるでしょうし、知識や想像力なんかも不可欠であって、つまりは良い音を鳴らすには世界観を確立したプロデューサー的存在がいなければしんどいということです。私は指揮をしたことはありませんが、きっとそういうことだと思います。


オリンピックの閉会式は、そもそもの指揮者が本番二週間前に不在となり、大変なことだったろうと思います。小林賢太郎のファンとして言いますが、閉会式は小林賢太郎味はないに等しいと感じました。いや、宮沢賢治なんかはもしかしたらそうだったのかもしれません。その他、小林賢太郎の欠片を探し集めている人も見かけたりしました。でもほとんどの人がトータルで小林賢太郎味を感じなかった理由があるとしたら、小林賢太郎が指揮をとっていないからです。そして、この時点で小林賢太郎の作品ではありません。代理で指揮をとられた方は、熱心でいらっしゃったとしても、指揮者はメトロノームだと思っているタイプの人かもしれません。欠片は散らばっていてもそれをつなぎあわせる骨組みも世界観も余韻もなければ、作品は煙のように消えてしまいます。


作品を作ってそれが売れてる人はそこのところが真にわかっている人だと思います。よさげなものをつめこめばいいってもんじゃない。なにを伝えたくてそのためにどこを取捨選択していくのか。たとえば余韻を生むためのミリ単位の調整とか。そもそも余韻がどんなものかとか。その必要性をわかっている人がその場にひとりでもいらっしゃればよかったなと思います。芸術って付け焼き刃じゃすぐ崩れる。何が言いたいかって言うと、もっと練られたものが見たかったし欲を言えば椎名林檎や小林賢太郎の作品が見たかった。私が知る限り、「指揮者」としての視点を持ったものすごく真剣な人達だからです。










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