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僕は自意識から解放されない

しかしね。僕は思うのだ。どんなに成績がよくても、りっぱなことを言えるような人物でも、その人が変な顔で女にもてなかったらずい分と虚しいような気がする。女にもてないという事実の前には、どんなごたいそうな台詞も色あせるように思うのだ。

変な顔をしたりっぱな人物に、でも、きみはおんなにもてないじゃないか、と呟くのは痛快なことに違いない。

山田詠美の小説「ぼくは勉強ができない」の主人公・時田秀美は、上記のような思想の持ち主だ。いま改めてみると、一見真理をとらえてそうに見えることを含めて、とても中二的な思想だと思う。

そして、それゆえに初めて読んだとき高校生だった僕の心に大きな足跡を残した。今でも記憶に残っているフレーズが多い小説だ。

自分が非凡であると意識ることこそ、平凡な人間のすることではないか。
幸福に育ってきた者は、何故、不幸を気取りたがるのだろうか。不幸と比較しなくては、自分の幸福が確認できないなんて、本当は見る目がないんじゃないのか。

上記のようなフレーズをなんとなく思い出して、20年ぶりぐらいに読み直してみたのだが、これほど完璧な青春小説はないんじゃないかなと改めて思う。

秀美は「勉強をして良い大学にいく」といった“普通の高校生”が持っていそうな価値観とは対極の思想を持っている。父親はいないが、経済的に困窮しているわけではなく、悲壮感はない。年上の恋人や友達もいる。

そんな秀美と「一般の高校生の持ちそうな価値観との摩擦」みたいなものが短編形式で描かれているのだが、これほど「10代の自意識」が適格に表現されている作品は多くないのではないかと思う。

本当は、自分だって、他の人とは違う何か特別なのを持ってるって思ってるくせに。優越感をいっぱい抱えてるくせに、ぼんやりしてる振りをして。あんたの方が、ずっと演技してるわよ。

「自分だけは特別だ」「自分は人とは違う」という感覚は、若い時に誰もが陥る錯覚だ。現代では、いわゆる「普通」に生きていくことすら、難しくなりつつあるものの、若者の多くはかつて抱いた「俺だけは周囲と違う」という幻想を忘れ、「社会の歯車」という物語の中に回収されていく。

だからこそ、「僕は勉強ができない」のような作品が、青春小説として、心に響くわけだが、この作品を39歳になって再読した僕はふと気づく。

自分の周りにいかに「まぁ俺は昔から変わってるから!」などとのたまう中年が多いことかと。そして、それを客観的に見ようとすることで、自分自身も「そうした過剰な自意識から解放された自分」を演じているのではないかと。

僕は、青春小説を読んで「あー、こういう青い考え方してたころもあったよなー」と思える程度には成熟したのかもしれないが、まだまだ自意識からは解放されていない。

20年後、60歳になった時にもう一度読んだら、その時は自意識から解放されているのだろうか。そうありたいと願ってはいるが、あまり自信がないのが正直なところである。

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