あの「思春期病」ができた経緯についてpart1


皆様こんばんは!スーパーラブリー以下略めぐみです!^_^

今日はMilmの楽曲である「思春期病」について語っていきたいと思います。

これは私が作詞作曲した曲なのですが、出来た経緯としては、大学一年生の時、授業内で無差別にグループを分けられ、🧑‍🏫「ほなグループはこっちで分けたから、頑張って一曲オリジナルを作れぇ!それを○月○日に皆の前に発表するんやぁ!」ていう感じの授業があり、無差別でグループが分けられるものですから、それはそれは色々あるわけですね。

これを見てる同じ大学の子達は多分この授業に対していろんな想いがあると思います^_^
「俺この授業めちゃ好き!」
「皆で曲作るの楽しい!」
「皆で頑張ろう!!!」
「そもそもグループワークが苦手」etc、、、
とまあまあ色々な意見が飛び交ってると思います。

私はこの授業について強いて言うなら「グループワーク苦手…くらいでしたね。」

これは思春期病の歌詞にも込められているのですが、「閉じ込められた教室で誰にも聞こえないように…」っていう歌詞があるのですが、「教室に閉じ込められている」と考えてる時点でもう。実は私は学校がとっても苦手な子どもでした。もうここら辺でお気づきの方は居ると思いますが、そうです。これは私の思春期が全て詰まっている曲なのです。


遡ること幼稚園の頃から(早すぎだろ)「幼稚園に行きたくない👶😭」と駄々をこねる子供であり、いざ幼稚園にぶち込まれると、丁寧に、それは丁寧に1人で黙々と泥団子を作る泥団子職人をしていました。あとは家族ごっことか…

集団が苦手なだけで、友達はいた。一対一の関係は大丈夫だった。ただ集団になると一人一人の気持ちを図るので自分の心がもたなかった。今となっては自意識過剰にも思えますね。

思春期病歌詞

いつも表情伺って、誰もがうまくやっている

そしてそのまま小学校に上がったものですから、もちろん集団が苦手ですね。私はその頃から「何で育ちも考えも違う人間が狭い教室にぶち込まれるんや…?拷問だろ…」と思っていました。

30人居たら30人の声が聞こえてしまう、誰かの嫌いも好きも分かりやすく見えてしまうドがつくほどのHSPな私はどんどん学校が嫌いになっていきました。

いじめられているわけでもない、なんなら友達は多い方で遊べる時は元気に遊んだりもする。

なのになんで「教室」には入れないんだろう?
あの頃の私が1番怖かったものは教室でした。

教室で元気なフリをする自分も気持ちが悪かった、
誰かが傷ついているのにそれが良いとされる風潮も、○○菌!とか流行るのも、全部気持ち悪かった

思春期病歌詞
「優しい嘘ってなんだ?優しい人ってなんだ
僕ら生きてるこの社会はいつも誰か殺してるじゃないか」

皆優しい人とか言うけれど、今もどこかで戦争は起こっているし、身近な戦争も見殺しにしている人間が、少し人に優しくしたからと言ってその一面を切り取って「優しい人」って呼ばれるなんて都合良すぎる

思春期病歌詞
「身体だけ育っていく、僕と不安だけ置いていかないで」

次第に保健室登校になり、授業は受けず、ひたすら
自分の好きな本や絵を描いたりして1日が溶けるように過ぎていきました。あの頃は1日を過ごすというより、1日が過ぎていくという感じでした。はっきり言って勉強さえしていない。これからの将来どうやって自分は生きていくんだろう。時間は平等であり、時に残酷である、正に時間に置いてけぼりにされている感覚でした。

思春期病サビ
「いつも通りの夕焼けを、汚れた朝に口付けを」

いつも通り過ぎてく放課後、部屋のカーテンも全て閉じている、太陽の光さえ痛い、また学校に行けずもがいてる朝、誰かに抱きしめて欲しかった、1人じゃないと、大丈夫だよって今なら言えます。
だからそんな気持ちを込めて今の自分から「口付け」をと書いています。

早く、早く終わって欲しい。早く大人になりたい。

「考える」時間があまりに多すぎたため、一日中、小学生中ずっと考え事をしていました。(これは今も変わっていない)

保健室登校が出来る日もありましたが、
学校に行けない日が多かったです。学校に行けない日の家はもう散々で、お母さんは泣き出すわ、兄弟から責め立てられるわ、自分でも

「なんで学校に行けないんだろう?何で消えたいって思っちゃうんだろう?」 
と自問自答を繰り返す日々。

思春期病歌詞
「幸せの定義ってなんだ?産まれた意味ってなんだ?僕が産まれ落ちた時からずっと問われながら生きている」


夕方五時のチャイムが鳴ると一斉に皆が帰り出す、普通の小学生は学校に行き、放課後に公園やら家で遊ぶ、だけどもそのチャイムで一斉に帰り出す。
その事実になぜかホッとしてしまう。

普通の小学生の1日が終わる合図だ。

ここからは学校に行っていない私も自由に息をしていい時間だと思っていました。

行事ごとにはほぼ参加しないものの、両親から「修学旅行だけは行って欲しい、楽しんで帰ってきてくれたら嬉しいなぁ」と呟きを聞き、いつも泣かせている両親が言うなら仕方ない

勇気を出して行った修学旅行

私を物珍し気に見にくる色んな人、

「学校に行ってる」人が偉くて
「学校に行ってない」人なんてもう死んでるも同然だった。

当時の私は肌感でそう感じていました。あの頃はソレだけが社会だったし、ソコで生き抜くことが全て

今みたいにSNSも発達していないので、「不登校」という言葉に聞き馴染みもない。

本当に自分も、学校も、皆も、全部しょうもない。早く死にたい。

ずっと思っていました

「病院も教科書も皆嘘つきばかりで…」

カウンセラーみたいな人が親が頼んでくれて話を聞きにきてくれる。その人にすら心を開くのが怖い、優しくみえる言葉と顔をして、結局私に学校に行かせるよう誘導してくるのが見え見えだった。

校門の前でいきなり体をかつがれて、4つの四肢を先生にもたれ、引きずり込まれた学校も(今でもトラウマだし、許してない)

この頃の私は人嫌いが加速していて、本、絵、音楽、これしか信じないようにしていました。

そして時間はそんな私の気も知らずに勝手に過ぎていき、小学6年生の3月になり、校長先生の部屋で1人、卒業証書を受け取りました。

学校行ってなくても卒業証書ってもらえるんだ!

集団生活に適応もせず、勉強もしていない私がそれをもらうのは少し、罪悪感がありましたが卒業証書というのは不思議で嬉しいという感情が強かったです。

そこからの中学、高校、

小学校の家にいる間にずっと考えてたこと、この6年間は普通になれなかったから、中学、高校の6年間は普通に学校を休まず行こう。
そう考えてました。

意思通り、中学高校と6年間ほぼ休まずに学校にしがみつき卒業しました(高校の最後の方ちょっと休んじゃった)
学級委員長も部長も全てこなした、小学生までの私を知らない人からしたら、それは学校に適応してるパリピ人間に見えていたと思います。


思春期病歌詞
「分かりあうことはできず、分かち合うことすら出来ずせっかく繋いでいた手さえ、話してしまうような僕だ」

でも結局孤独の中生きた6年間と上辺だけで生きた6年間、空っぽでした。大切な友達もたくさんできた。でも手放してしまった人間関係も数知らず、自分の過去が知れたら皆、私のこと嫌いになるんじゃないか。怯えながら過ごしていました。
中学生の頃は特にひどく毎日明るく学校には行くものの、帰ってきた瞬間涙が止まらなかったし



part2に続く…



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?