2022年7月27日

最近、同じようなことを何度も何度も、ぐるぐるぐるぐる、ズルズルズルズルと考えている。「自分はどんな人間で、何が良くて何がダメなのか。他人に対してどんな影響を与えうる存在なのか。」いかにも暇な中高生が考え込みそうなテーマだ。大学も3年目が半分終えようとしている時分に、未だにこんなことで悩んでいる。
というのも、僕はこれまでさほど人からの見られ方とか、評価を気にしたことがなかった。思考は一人称視点で、人のことを考えて何かをするということは周りの人より少なかった方だと思う。今更ではあるが、それに対しての反省と社会的成熟度の巻き返しを図って、自分がどんな人間なのだろうか、といったことをぼんやり考え込み始めた。

今直面している壁は、客観視の難しさである。最初に悩み、そして一番長く時間がかかるであろう課題だとは思っていたが、しっかりとその渦中に入り込んで、なかなか出られなくなっている。自己否定について以前書いた通り、僕は自分に対する評価が低い。僕に出来ることは他の人にだって出来るだろう、といった思いがあり、どうしたって「僕の長所だ。」などと楽観的に捉えることが出来ないでいる。長所はと聞かれるとあまり出てこないが、短所ならいくらでも出てくる。だから僕は客観的に能無しだと、僕は僕を評価している。そんな僕は、「客観視して物を捉えることが出来る。」と評価を受けることが度々ある。他人によると、僕は分析力、表現力が優れているらしい。バイト先の先輩に言われたり、身近な人に言われたり、他にはそれほど重要視していなかった大学の英語の講義で率直に書いた感想文を先生が取り上げ厚く評価してくれたことが深く印象に残っている。だから、客観視の得意な僕は、客観的に自分を捉え、評価することだって上手く出来ているはずだ。ところが、どうもそうでもないらしい。
そもそもこの「客観視が上手い。」というのも、自覚していないことだった。予め決まった評価軸があるのならばそれに照らし合わせて評価し、評価軸が無いのなら自分で用意して同じように評価する、という至極当たり前のことをしているだけだ。そんなものに上手い下手なんてあるとは思っていないし、下手な人がいるとしたらその人は意識的にそれを行わず思いつきで論じているだけで、ちゃんとやれば出来るだろうと思っている。だから自分が客観視が上手だという自覚はしておらず、他人から言われた時には「そうなのか?」と疑ってしまう。客観視する能力について、僕は客観的に自分を評価できていないようだ。
そしてもうひとつ。僕は能無しだという自己評価を否定してくる人がいる。ごく少数だが、僕のことを高く買ってくれる人が実際にいる。僕からしたらそういう人の見る目そのものを疑いたくなるが、頑張って素直に受け止めると僕の僕に対する評価は不適切だということになる。その人たちからすると、僕は僕のことを客観的に評価できていないようだ。
つまり僕は、客観視は上手いが客観的に評価することが出来ていないという現状に直面している。一見矛盾している話だが、確かに併存している性質だ。これが分からない。僕は客観的に評価することが出来るのか出来ないのか。対象に依るというのなら何が得意で何が不得意なのか。その改善策は何か。ここが明瞭にならない限りは、「俺ってこうだよなぁ。。。」と思ったところで、そんな足場の無い妄想には何の価値もない。間違った捉え方をして、人から勘違い野郎扱いされるのは御免だ(もう既にそうなのかもしれないが)。

「自分はどんな人間で、何が良くて何がダメなのか。他人に対してどんな影響を与えうる存在なのか。」という大テーマの中の、「客観的に自分を捉えるということ」という小テーマについて思索している。これを突破したら、ほぼゴールは目の前だと思っている。自分の評価と他人からの評価のすり合わせが上手くいった時、それは自分がどうしたら他人にどう影響するか、他人からどう思われるかを理解することができるようになり、社会の中での自分のポジションを俯瞰して正確に捉えることが出来るようになる。
この篇をここまで書いてきて、ひとつひとつ言葉を積み上げて来たが、ここに来てぐらつき始めたのを感じる。脳内が混乱している。言葉が続かなくなる。明確に僕の思考がこの先に到達出来ていないことを教えてくれている。
社会的成熟度の高い人達は、この問題を突破したというのか。どう突破したのか。はたまたそもそも突破出来ないものとして、別の方向に思考を伸ばしていくべきなのか。何もかもが分からない。向かうべき方向が、分からなくなってしまった。


ところで、多様性多様性と言う世の中に楯突くつもりはないが、多様性を認める動きは、多様性を認めないことで生じる争いよりもタチの悪い各人の孤立化、社会の解体をもたらしうるのではないか、と何の前触れもなく急に思いついた。「はいはい、君はそう思うんだね。分かった。」で全ての主義思想が処理されては、僕らは身を寄せ合うことなんて出来ないのではないか。


今日水曜日は明日木曜日、明後日金曜日の試験に備えなければならないわけだが、勉強がしんどくて余計なことばかりを考えてしまう。人間関係はめんどくさいし、それは周りにいる人間がろくでもないからなのではないか、と独り静かに腹を立ててしまうし、だから僕には友達が少ないのではないか、と悲しみを憶えてしまう。品格は何に対しても先立つのだなぁと、少したるんでしまった腹を抓りながら思う。痩せねば。これは恋愛観の話。

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