2022年8月15日

今日8月15日は終戦の日。
今年は終戦から77年。77はラッキーな数字というイメージがある。本国で77年間、周辺諸外国とのいざこざを抱えながらも戦争にまで発展せずに済んでいるのはラッキーと言って良いのかもしれない。外国との関係を良く保つために国力は大事なので、平和維持という意味でも立法府、行政府には頑張ってほしい。とても浅いことを言っているような気がするからこの辺りで留めておく。

今日も朝から甲子園中継を観ていた。正午頃、試合を中断して球場全体で黙祷を捧げていた。黙祷は一種のスピリチュアルな営みだ。戦争で犠牲になってしまったその場にいない方々に弔いの意志を示す。こんなことを言っては失礼だが、直接的には何の効果もない。だからと言ってそんなことをしなくて良いとは全く思わない。黙祷は間接的に自分の意思の再確認になるし、年々薄れていく「戦争は良くない。」という意識を戦争を知らない僕らが受け継ぎ繋いでいくための大事な営みだと僕は思っている。
だが、野球の試合中に試合を遮って黙祷を差し込むというのはどうなのだろうと疑問に思った。あの時間、球場にいた人達は何を思っていただろうか。真っ直ぐ弔いの意を祈りに込めた人もいたかもしれないが、「相手打線をどう封じ込めようか。」「相手のバッテリーをどう崩そうか。」「勝ってくれ〜。」とその先の野球のことを思いながら目を閉じた人は勝手な想像だが少なくなかったと思う。何しろ野球人生最大の勝負の最中だ。本人たちも応援する人たちも、そこに意識が向くのが自然だろう。自然だからそれを認め、試合の前か後にした方が良いのではないかと僕は思う。

そもそも、スポーツというのはひとつの争いごとだ。戦争と違って直接的に命を奪うわけではないが、「相手を打ち負かす。」という明確な意志を持って戦っていることに変わりはない。スポーツ以外にも、受験、就活、出世、選挙、外交等々、規模の大小はあれど僕達は日々争いの中で生きている。僕だって受験期には自分が受かるために、すなわち他の人を落とすために勉強していたし、今後する予定の就活でも「他の人に勝る強みはなんだろう。」「他の人より良い印象を与えるにはどうしたら良いだろう。」と考えて実践するだろう。誰しもそれぐらいの規模においては自分のために他人を蹴落とすなんて何も悪い事だとは思わない。むしろ資本主義、実力主義の弱肉強食の理を受け入れ、積極的に強者側になるように教えられ、その価値観で生きている。他の生き物同様人間には明確に闘争本能があるし、それを理性的に肯定することで社会は成り立っている。
だが命だけは奪ってはいけない、戦争は決してダメだと多くの人は言う。僕も戦争は良くないとは思うが、闘争本能を認めておいて命を奪う戦争だけは断固として認めないという姿勢はあまり好きじゃない。そんな都合の良い中途半端なことを言っていては未来永劫平和なんてものは手に入れられない。オリンピックが平和の祭典だなんて馬鹿馬鹿しい話だと思う。闘争本能を戦争ではなくスポーツで昇華しているに過ぎない。「日本代表が金メダルを取った!」などと言って観客は当然のようにナショナリズムを煽られ、それに対し何の違和感も抱かない。とても平和とは言えないだろうと僕はつくづく思う。
甲子園に話を戻すと、野球だって争いごとだ。ルールに則るという点でかなり大人しいが、相手チームを打ち負かすために尽力する。勝つと嬉しいし負けると悔しい。それはもう立派な争いごとだ。その最中に平和を想って黙祷する。僕にはどうしても納得出来ない。闘争本能を戦争ではなくスポーツで昇華することが平和的な営みなのだとするのであれば、争いごとを全て撤廃してしまう方がよっぽど平和的な営みだと思う。それが現実的でないと言うのなら平和を手に入れることが現実的でないということになる。
言ってしまうと僕は真の平和というものは現実的ではない話だと思う。そんなものは未来永劫有り得ないと思う。「どこまで血を流さずに争っていられるか。」が平和という言葉の意味だと思う。ただ戦争が絡んでしまうと争いそのものを否定する論調が多く見られる。戦争の前段階の国際的な緊張が高まることまでを否定したがってしまう。戦争と争いごとを意識的に切り離して考えられるかどうかが、平和を考えるということなのではないかと思う。先人たちが77年間「戦争は良くない。平和を!」と叫んでいただけなら、こんなに悲しいことはない。

こんなことを言ってきたが、弱肉強食社会が良くないと思っているわけではないし、スポーツを観るのは好きだ。僕はそういう争いを肯定し、そして戦争を否定する。ありふれた考えを持っている凡人だ。
だが21年半生きてきて、「ヒトの闘争本能」「争いごと」「戦争」をきちんと分けてそれぞれについて考え、結びつけ、「平和」へと思考を展開させてきた大人はそういないだろうという気付きを得てきた。もちろん僕は賢いわけではないので、「平和とは何か?」という問いにら答えられないし考えてもこの先どこかで行き詰まる。

だからこそ終戦の日のようなタイミングで定期的に考えなければならない。
考えて、問いを次代に託さねばならない。
黙祷もそのための営みでなければならない。
今日はそんなことを思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?