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22歳の誕生日を迎えた。この歳になると別に誕生日だからどうとかは無いが、そうは言っても自分だけの区切りの日であることに変わりはないから、「21歳はどうだっただろう。22歳はどうなるだろう。」と自分を見つめ直すようなことをしてしまう。
自分を見つめ直すことは置いておいて、それよりもこれからはありとあらゆる場面で「22歳です。」と答えなければならないことについて考えを巡らす。21歳ではなく22歳。数字が1違うだけで、21だろうが22だろうが外見的にも内面的にもそれほど大きな差は無いだろうが、どうしようもなく21歳ではなく22歳なのだ。22歳的要素が強いから22歳なのではなく、22年生きたから22歳としてこの先1年を生きていかなければならない。ある種ラベリングだと思う。22歳という区切りを設ける、名前をつける。そうすることでその中に僕を収め、「そういうもんだ」って説明する。「AB型です」とか、「大学生です」とかも同じで、だからどうということはないのだが、ラベルが全く無いのはそれはそれで生きづらい。ラベルによって保証される「僕」が確かに存在する。
反対に、余計なことをしてくれるなとも思う。別に大学生だからと言って高度なことを学び自分のものにしている気はしないし、かと言って遊び呆けて甘い汁を吸い続けているつもりもない。「AB型って変わってる人多いよね」などと言われるとそこでシャットアウトして会話を終わらせたくなる。感情にしたってそうだ。同じ「好き」でも、この人への好きとあの人への好きは明確に違う。別ジャンルの感情と言っても差し支えないほどに僕のなかで人ひとりひとりに対する感情は大きく異なる。「好きなの?」とか聞かれると、「好きと言えばそうなんだけど、そうじゃなくて……」と声にならない言葉を殺して首を中途半端に捻る。
電車の広告で「老害」という文字を見て、自分の悪い経験を思い出す。接客をしていて、話が通じない老人の人にあたる。「何を言っているんだこの人は。」と辟易しながら、何とかやり過ごそうとする。この時僕は、この頭が固く自分本意な老人を「老害」とラベリングしている。そうすると思考が停止して楽なのだ。「あぁ、話が通じない人だ。対話をしようとする必要はない。上手く捌けば良いのだ。」そう思うと一気に心が軽くなる。教科書を読んで学んだわけでも、実生活の荒波に耐えうるために時間をかけて体得した訳でもないのに、自然と思考を止めてただやり過ごすという術を身につけていた。人間は考える葦だとか何とか言うが、ラベリングは、人間を考えることさえしない葦にしてしまう。
「老害」は本当に便利な言葉だ。大した意味を込めずにとりあえず気に食わない老爺老婆を大雑把にラベリングすることが出来る。だが、それが僕を思考停止へと追いやる。出来るだけ多くの言葉を使い、細かく細かく説明し、丁寧に輪郭を追いかけていくような、そういう頭の使い方を出来るようになりたい。現実問題として、話の通じない老人にどうエネルギーを割いて思考を止めずに問題解決へ導くのかという具体的手立ては全く持ち併せていない。多分上手くいかないことが多いだろう。それでも、目の前の人に対して「好き」とか「嫌い」とかだけで振り分けるようなことはせず、名前のない複雑な感情をそのまま自分の中で育て、適切に発出させられるような人になりたい。

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