2022年7月26日

昨日は本当に酷い日記だった。レッドブル2本の覚醒効果が底をつき、とても悪い眠気に1日中襲われ気が狂っていた。現実で昨日僕と関わってくれた人には感謝とお詫びをお伝えしたい。


目が覚めて先程、こんな記事を読んだ。今回の第7波についての尾身会長の発言がけしからん、という内容のものだ。内容に関しては特に思うことはない。ただ、以下の部分が少し気に食わない。

第7波では、それを超える犠牲者数になる可能性があると明言したのだ。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/308759/2

「可能性があると明言した」というフレーズ。確かに間違ってはいない。「高齢者の死者数が第6波を超える可能性がある。」と会長が述べたのだから、可能性があると明言したというのは事実だ。
だが、「可能性があることを明言」とは一体どういうことなのだろうか。この文章はあたかも「第7波は第6波を超えるって言ってるぞ!」と煽っているように聞こえる。可能性があることを述べるのは、あくまでそれが『可能性』としてあることを把握しており、そうならないための努力が必要であるという分科会の姿勢を表したに過ぎない。この「明言」という言葉の響きと、この記事のタイトルである「仰天発言」から、「第7波は第6波を超えてきそうです。でももう国民が自身で何とかしてください。」と会長が投げやりに言ったかのような印象を読者に与えかねない。
可能性について言及するという曖昧なものに対して、「明言」などという言葉を充てるのは不適切だと僕は思う。「という認識を示した。」「と危機感を顕にした。」とでも言えば、可能性があることを把握し、恐れているというニュアンスを伝えることが出来る。それなのに「明言した」という言い回しを使用してきたところに、この記事が読者を誘導しているのではないかという嫌悪感を僕は憶えた。

インターネット記事とは、往々にしてこのようなものだ。何も日刊ゲンダイが特別酷い媒体だとか言うつもりは全くない。どこもおしなべて酷い。「明言した」のように、間違ったことは言っていないが感じ方を誘導する表現は当たり前のように使われている。それは記者、出版社が資本主義の中でこの記事を作り世に出している以上は仕方がない。ビューやリアクションを求めると、そういう歪んだ表現になってしまうということは僕も理解を示しているつもりだ。
ただ、いや、だからこそ、と言うべきなのかもしれないが、「あぁ、そう読んでほしいのね。」とメタ認知したうえでそれを無視して読む、ということをしたくなる。この記事の例で言うと、「可能性があると明言した」は煽るためにこの言い回しを使っているということを認識し、「尾身会長は可能性について考えているんだね。」と煽られないで読む、ということだ。メディア側にも「嘘は書いちゃいけない。」くらいの良心は残っているはずだろうから、どれだけ煽れるか、どれだけオーバーに書けるか、どれだけ誘導できるかで勝負しているはずである。だから、僕達はそれを理解した上で、冷静に正しく読み下すということが必要だと僕は感じている。

僕は最近日記を付けるようになって、多少は言葉というものに意識を傾ける時間が増えた。どう書けばどう伝わるのだろうかということを考える時間が増えた。まだまだ至らない文章ではあるが、何も考えないで書くよりは良いものを書けているという手応えを感じている。もっともっと、言葉遣いに対して慎重になりたい。誘導を削ぎ落とした文と、あえて人を誘導する文を、自分の意識の中で書き分けたい。そんなことを思った。


これを食った。不味かった。体調が悪い。およそ人の食い物じゃない。


非常に体調(というか気分)が悪かったが、とにかく今日の試験は乗り切った。無事を祈る。
毎度思うことだが、なぜ授業をそれなりに聞いていてメモも取っているのに知識0から勉強することになってしまうのか、本当に意味がわからない。日頃の復習がどうとか言うが、結局全ての内容を終えた後に階層化して情報を整理しないことには、各論を覚えていても何のどこの知識なのかが分かっていないと試験においては何の役にも立たない。だから日頃の復習はやってもやらなくてもそう変わらないのでは、と思う。いや、ただの言い訳だ。やった方がいいに決まっている。やってこれなかった僕の弱さだ。この反省はテストがある度考えついてることだが、今回も同じ結末になりそうだ。

明日は1日テストもなくお休みの日。明後日、明明後日を完封出来るよう、今日から惜しみなく注力しつつ英気を養いたいところだ。

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