2022年10月26日

「普通の感覚って何だろう」と考える。変わってる人、ズレている人。そういう人を除いていくと、変わっていない人、ズレていない人が残る。そういう人たちのことを普通の感覚を持つ人と言うと思う。変わっているとはどういうことなのか。ズレているとはどういうことなのか。普通の感覚について考えるには、まずこのことについて考えるべきだと僕は思った。
変わっている人、ズレている人。確かに実際身近にそういう人はいる。「なんでこの人そう考えるんだろう」となかなか理解出来ないことはよくある。それは大きな思想信条レベルの話というよりもむしろ、何気ない生活の一部分を切り取った時に出てくるほんの少しの変な言動だったりする。だから決まって不意をつかれる。「え?」と返してしまう。どう考えても違う、という訳ではなく、説明出来ないけど何か違う、と確かに感じる。形はよく似ていてハマりそうなのにハマらないパズルのピースに似た感覚だ。明らかに大きさが違うとか角の数が違うとかならそもそも当てはめてみようとすら思わないが、よく似ているからハマりそうな気がして当てはめてみてしまう。しかしハマらなくてイライラしてしまう。
変わっている人、ズレている人をハマりそうでハマらないパズルのピースだと解釈してみる。そうすると普通の感覚を持つ人とはどうなるのだろうか。パズルの例で考えるとピッタリと当てはまる人だ。ただパズルにおいてはピッタリ当てはまる人はただ1つしかないし、ハマった時のあの快感は人間関係においては「この人ドンピシャだな」となる感覚に近く、そんな人はそうそういない。では普通の感覚を持つ人なんてほぼほぼ居ないということなのか。それはそれで違うような気がする。人には大抵良いところと悪いところがある。正しさを「普通の感覚」の構成要素とすると、100%正しさだけで構成される人はいないし、正しくない部分をそれなりに含む人のことも普通の感覚を持つ人だと認識している。悪いところもある程度許容出来る柔軟さがある。だからパズルほど合う・合わないが厳しくない。似ているピースを形を変えて取り込めてしまう。
似ているピースを取り込めるのに、どこかで違和感を憶えて「変わっている」と思う場面はある。この線引きはどこでされているのか。細かく細かく考えると、かなり個人的なものな気がする。悲しいことに容姿から始まる。やはり顔が良い人は多少変なことを言おうが世間を舐めていようが上手くやっていける。あとは頭が良い人もそうだ。頭が良いからズレているのかは分からないが、頭が良い人はその部分を受け入れられやすい。反対に、パッとしない人はちょっとしたことで簡単に評価が下がってしまう。ステータスと変なことをするというのは全く別の次元の話なのに、無意識に同じ次元のものと捉えて足し引きしてしまう。そんなので「変わっている人」と評価してしまう。
僕は今まで数多くの人を顔が良いから許してきたし、頭が良いから許してきたし、見た目が気に入らないから許さなかったし、頭が良くないから許さなかった。だからといって自分だけが不当な評価軸で間違った見方をしているとは思わない。皆が皆そうだから、相対的に普通or変評価軸は正当なものになっているのだ。プラスのステータスを持っていれば変な要素を打ち消してくれて、マイナスのステータスを持っていれば変な要素に加算されてしまう。だから普通と変の溝は深まり、普通と変の間は広がり、許せる変、許せない変というものが存在してしまう。そしてこの許せる変も、「普通の感覚」に入れてしまう。結局、顔なのかなぁと思う。顔が大事なんて言うと精神的に成熟していない人と思われそうだが、「顔なんて気にしない」と言いつつ無意識に顔で判断してしまうよりずっとマシだと思う。結局顔なのだ。一番ではないが、二番目、三番目あたりに顔がある。

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