「小説は書けないな」と思った話
近頃小説を読むようにしている。僕はどうも小説を読むのが苦手だと感じているからだ。「読書家」と聞くと大抵は小説を読むことが好きな人、という文脈で取られる。しかし僕の場合は小説よりもむしろ、評論や教科書のような伝えたいことを伝えるためだけに文字を使用している豊かさを含まない活字を読むことの方が得意だ。評論は、まるで入試の現代文を読解しているような感覚で、「これは筆者の主張だ」「これは主張の下支えをする例だ」というように、文章が持つ役割を汲み取り、そのメタ認知の中で文を噛み砕くということをすることが出来る。しかし小説は、そういった文の役割だとかを考えるとすごく無機的で、言ってしまえばそんな風にして読むのであれば小説は情報としては物凄く無駄の多いフォーマットになってしまう。だからこそ筆者が選んだ言葉遣い、筆者が下ろしてきた登場人物の思考回路がどうなっているか、そういった所に対し一つ一つ真剣に向き合わなければならない。だから僕は小説を読むのが苦手なのだろうと分析している。
敢えてメタ認知的なことをしないで、場当たり的に、主体的に文に感情を潜らせていく。それこそ息継ぎをしたくなる感覚で、「この文は何を言いたいのか」「なんのためにこの文が書かれているのか」と上から文を切り捨てたくなってしまう。それを我慢するかのように、集中して、潜る。この潜水練習のおかげで、見えてきたことがある。それは「活字から想像を膨らませて楽しむ」ことの面白さだ。物凄く単純な話だ。全然高等なことではないし、すごく原始的な読書体験だろうと思う。しかし、こんな初歩的なことさえ僕は忘れていた、あるいは知らなかったのだ。映像は、(言わせれば幾らでも反論が飛んできそうなものだが、あくまで素人目線では)描いたことが全てであり、全てを見る人は受容するものである。人の話す間であるとか表情であるとか、そういったところを描き、時には強調して見せることで、その作品内の世界全てを描き切ることを念頭に置いて作られるし、見る人は見たまんまを受容すればそれで良いとされる。しかし小説というのは、人の話し声も分からないし見た目も分からない、世界の色味も分からないし時間的な尺度もこちらの読書ペースで左右することが出来る。あらゆるものが自由であるが故にあらゆるものを自分の中で組み立てる必要がある。評論を読む時の僕は「情報」としてしか活字を吸収することが出来なかったが、小説を読むようにしてからは「追体験」として活字を吸収することを覚え始めている。もっとも、一人称視点で書かれている小説に対し、三人称的に捉えているので同化し切っているわけではないが、それに近づけるようにして読んでいる。そうしてみると、存外面白いことに気がついた。自分にある感性や記憶、思考回路が「引き出される」感覚。与えられたものと持っているものを使ってその物語の世界を作り上げていく感覚。今はまだ大したこと無いが、経験を積むことにより作れるようになる世界はどんどんと緻密に、そして大きくなっていくのだろうと思う。
楽しいと感じる一方で、「僕には小説は書けないな」とも思う。何にしても創作は0から1を作り出すという作業だから難しいのに違いは無いが、活字という情報量の少ないものを何十万という文字数分積み重ねることでひとつの世界を構築するという作業は、想像を絶する難しさだと思う。文章で人を描き切らなければいけないし、街を再現しなければいけないし、動きを見せなければいけない。そのためには情報を伝える文の書き方に加え、世界を詰め込む文の書き方をしなければいけない。容れ物であると同時に中身でもある、そんな文章を書き切り、人に届けるなんていうことは自分には到底出来ないことだと感じた。
そんな具合だから、小説を読み始めて良かったと感じるし、もっと読んでいく必要があると思うし、もっと読みたいと思う。今ちょうど暇を持て余しているから、くだらないことを書くのはこれぐらいにして、自分の内側を充実させたい。
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