2022年7月23日

昨日の続きが今朝目覚めた時にふわんと頭を過ったから、覚えているものを書き連ねていく。メモのようなものだ。

昨日の内容は、僕には硬い文章は書けるが柔らかい文章が書けない、という話だった。柔らかい文章が書けないとはどういうことだろうか。
僕の読解力が著しく低い、というのは考えたくないので、並の読解力があると勝手に仮定する。読解力があるから、野田洋次郎は君の前前前世から君を探し始めたことを歌ったわけではないと、書かれていないことを読むことが出来る。詩のほとんどを理解出来ないと以前書いたが、読めるものに関しては書かれていないことをきちんと読めている。
だが、それをゼロから組み上げるということが僕には出来ない。敬愛感情を表現しようとした時に、「君の前前前世から僕は〜」なんて思いつけないし、「空も飛べるはず」とも思えない。柔らかい文から抽象概念を読み解くことは出来ても、抽象概念を柔らかい文に書き表すことは出来ない。一方通行だ。

嬉しいことに、僕の文章を褒めてくれる人がいる。文章力があると評価してくれたり、文章力があることを評価して僕に文章の添削を依頼してくれたりする。今までの話を整理すると、この「文章力」というのは、つまるところ言葉での「説明力」なのだと思う。「論理的な文章を書くね」というのも、情報伝達手段としての言葉を丁寧に正しく紡いで隙のない文章を構築しているね、ということを言っているのだろう。
説明のための言葉の使い方が上手いというのは、大事な長所だと思う。言葉は本来何かを説明し情報を共有するために作られたものだ。『りんご』という言葉を知っているから、僕らは目の前にりんごがなくともりんごについての情報を時間、空間を問わず共有することが出来る。言葉の本来の使われ方である説明のための言葉の使い方を、今日僕は勝手に『一次的な運用』と呼称した。一次的な運用が上手な人は、事象を正確に文章に表し人に伝えることが出来る。ノンフィクションや新聞記事のような、一義的な理解を求められる文章を書く際には一時的運用力が問われる。これに優れているというのは、ノンフィクションや新聞のような文章を書くのに適した人材だということだろう。

では二次的、三次的な運用はあるのか、それは何なのか。言うまでもなく、抽象概念を説明せずに伝えようとする言葉の使い方である。何が二次的で何が三次的というわけではないので、『高次的な運用』とする。高次的な運用が上手な人は、散々言ってきた通り、人に共感してもらいやすい文章を書くのが上手だ。詩、エッセイ、歌詞、ツイート。小説もそうかもしれない。その言葉自体には大した意味は無いが、読み手の中で花開き、感覚として抽象概念を共有する。
僕は柔らかい文章の良さを、『未完成性』で評価している。説明的な硬い文はそれ以上の情報を持たず、一義的な理解を求める。反対に、柔らかい文章は読み手が解釈して抽象概念を想起するというステップを踏む。読む段階でその文章は成長幅を残しており、それが成長して高次的な情報へと昇華する。成長幅を残した文、つまり未完成な文を書く能力が、高次的運用力ということになるのではないか。
しかし、ただ単に未完成であれば良いというわけではない。読んでも意味が伝わらなかったり、行間を読んだとしてもそこから抽象概念を想起することがなかったりする文は柔らかい文でも何でもなく、ただの駄文だ。未完成なのにも関わらず言葉に言葉以上の意味を持たせるというのは、とても高度な技術だと僕は思う。

一次的運用力も高次的運用力も、どちらも文章力として重要な能力だ。僕は一次的な運用はボチボチ出来るが、高次的な運用が苦手だと自覚している。「自分の話をする人はモテない。」とよく言われるが、自分の話の中でも一次的な言葉を使って話す人は確かにモテないが、高次的な言葉を使って話す人はかえってモテるのではないだろうか、と思う。あなたの日常生活自体にはそれほど興味は無いのだけれど、あなたがするその報告から感じる雰囲気はとても好きだなぁと思うことはあるだろう。話が面白い/つまらないの基準も、もしかしたら高次的運用力に関係するかもしれない。
しかし結局、今朝の頭ではどうしたら高次的運用力を伸ばせるのかが分からなかった。きっと暫く分からないだろう。何はともあれインプットだ。試験が終わったら、詩を沢山読む機会を作ろう。


試験がヤバい〜〜〜〜〜〜!!!!!!
どうにもならん〜〜〜〜〜〜!!!!!!


↑昨日の。

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