2022年11月6日

自分を客観的に評価するのが難しいと感じる時がある。前にも自分が自分のことを客観的に見ることが出来ているかということを考えたが、今日の僕は、明確に自分のことなのに分からないという自覚を持ってしまっている。
ただ、客観的な評価は出来ないにしろ、人は他人とのインタラクトによって象られるものだということを何となく感じた。自分がどんな人間なのか。どういうことを考える人間なのか。とあるシチュエーションにおいてどういう行動をとる人間なのか。他人からどういう影響を受ける人間なのか。反対に他人にどういう影響を与える人間なのか_________。どれもこれも、鏡を見ているだけでは何一つ分からないことだ。経験によって初めて知り得ることだし、時間を追えば成長か退化か、自分というものは変化していくから同じことをしても結果が異なる。つまり毎秒毎秒、違う自分と対峙し続けることになる。
今日は少し、というか大分、自分を速く変化させた1日だったと振り返る。だから新鮮味があったし、自分が自分でないような気がして、地に足が着いた感覚を失い、客観的な評価が出来なくなっている。凄く正しかったような気がするし、凄く間違っていたような気がする。正しいか間違っているかは現状の自己の中のみでは定まらず、それは後々分かってくるもので、「あの時間違ってたんだな」とどうしようもない感情として明らかになる。今のこの感覚が、大変気持ち悪い。人生にシークバーがあるのなら確実に早送りしてさっさと結果が明らかになるところまで飛ばしたい。
「焦るな、焦るな。」ずっとそんなことを思っていたし、これからしばらくずっとそんなことを思うような気がする。感情に適当な名前を付けてしまうことも、シミュレーションが完了する前に行動に移してしまうことも、結果に対して条件反射のように考察を当てはめてしまうことも、何もかも焦ってしまう性分だ。忘れてしまうぐらいがちょうど良いのかもしれない。分からないことをハッキリとさせたくなってしまう。言語化は常にそういう焦りに対して安心感を与えてくれる。だから僕はあらゆる場面で言葉を多用してきた。だが、言語化はある程度の圧縮だ。事象や心象を削ぎ落として出来るのが言葉だ。そこに残らない様々な多次元的情報を、のちの自分はすっかり無かったことにしてしまう。それを今はやめたいと思った。
今日が最後の日だとか、今が最高潮だとか、そういうことを思いすぎな気がする。今なんて大切じゃないと思えば、焦らなくて済むような気がする。そういう考え方ははっきり言って受け入れ難いが、折り合いを付けるために逆側に無理にでも振れてみようと思う。

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