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硝子に映る生き様 後編

女装姿の男性は、大聖堂近くの美術館の裏手にお気に入りの店があると言って連れて行ってくれた。キャンドルだけを頼りにした薄暗くアンダーグラウンドな闇のパブで、彼以上に凄みのある人達に囲まれながら得体の知れない酒を飲まされて…とFは想像していた。

ところがそこは、太陽が燦燦と差し込む健康的なテラスカフェだった。彼はメニューも見ないで、席に着くなりシードルを二つ注文した。菱形の模様が刻まれたグラスに、いくつもの光と影が交差していた。
「ぷはー。とりあえずビールと行きたいとこなんだけど…どのくらい飲めるんだかわかんないからさ」
彼は一口目からグビグビ飲んでそう言った。
Fがドラフトビールを飲み干して歯を折った武勇伝を話すと、彼は大きな口を開けて、声を裏返らせて大笑いした。それから仕切り直しのビールを2杯注文して、Fに体を向き直った。

「アタシなんかについてきて、あんたも好きよね~。じゃまぁ、とりあえず。大聖堂の出会い、大成功!なんちゃって!カンパイ!」

薄く繊細なグラスがぶつかり合う瞬間、彼の力加減が慎重になったような気がした。


不思議だった。それにこんな感覚は、初めてだった。この人には包み隠さず話してしまいたい。Fはそんな気になった。まるで人生の膿を出しきるように、まったく初めての人に話す話ではない話を次から次へ渡り歩いていった。そしてその度に二人は、笑ったり、落ち込んだり、グラスが新しくなったりした。

誰にも話したことはない。
ずっと、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
自分の人生は、これでいいのか悪いのか、誰かに教えてほしかった。

彼は緑がかった透き通る目でまっすぐにFの目を見つめながら、一生懸命話を聞きながら、めちゃくちゃうまそうにワインを飲み続けた。





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「まぁ…そうだったの。あんた、若いのによっぽど苦しんだのね。かわいそうに。初めて会ったっていうのによく話してくれたわ。

……でもね。
アタシあんたよりもっともっと苦しんでた子達知ってるわ。それ聞いたら自分の悩みなんか屁みたいに思えるわよ!」

そう言うと彼はテーブルの上に身を乗り出して顔を近づけてきた。
「…とか言うと思った~?ヤダヤダ。若い時言われて最高にヤだったコト言ってみたの。ほんっと性格悪いわアタシ、ごっめ~ん!」

彼は集団でランチするOLのようにキャッキャと笑った。Fはだんだん酔いが回ってきたのに加え、彼の笑顔にフワフワしてきた。この人は一体何なのだ。わけのわからない魅力、いや魔力に憑りつかれてしまいそうだ。

「言っとくけど、あんたの苦しみはあんたにしかわからないわ。アタシにはぜーんぜんわかんない。あんたが歯折って血流しても、痛くも痒くもないもん。」
すると今度は突然突き放すようにそう言った。



「だけどね。うらやましいとは思うわ。あんたにしかわからない苦しみって、あんただけのものでしょ?なんか、手に入らない宝石みたいな感じするわ」

「え…苦しいのに…宝石?」

「そう、アタシ光るものが好きだから。自分が経験できないもの、手出しできないものは光る宝石よ。一生手に入らない宝石。
アタシね、こうやって女の格好してるでしょ?これって、ずっと変だなーと思ってるの」

Fは口に含んだワインを吹き出しそうになった。
「いや、まぁ、変は変ですけど…」

「ちょっと失礼ね!変っていうのは、変態の変じゃないのよ。いや世の中的にはそうかもしんないけど…つまりよ!アタシはただ男の人が好きってだけで、別に女の格好しなくてもいいはずなんだけど…どうしてもしたいのよね。それってアタシの中に『男として男が好きなんじゃダメ、女として男と恋愛したい』って考えがあるからだと思うの。“女らしさ”こそが美しいって思ってるのよ、アタシ」

Fは、時間も忘れて夢中で彼の話に聞き入った。

「アタシの周りにはやっぱ色々苦しんでた子も多かったのよ。からだ、手術したりとかね。アタシ達の時代はまだ情報もそんなになくてさぁ。みんなタイまで何回も飛んだりしてたわよ。体めちゃくちゃになった子も居たし、失敗して死んだ子も居たわ。手術代稼ぐために昼間は建設現場で働いて、夜はキャバレーでドレス着て踊ってた子も居た…建設現場で働くって、男の自分とイヤでも向き合わなきゃなんないでしょ?でも夜の蝶になることでギリギリ女の自分保ってたんだと思うわ。そうまでして女になりたかったのよねぇ、みんな。あ、アタシは何もしてないわよ。今想像したでしょ?!」
彼はニヤニヤ見つめてきた。雲に塞がれた空から差し込む光。美しく手入れされた庭に咲く小花の群集。Fは彼が主人公のフランス映画でも見ているような気分だった。

「何で女になりたいかって、アタシにはよくわかるわ。どんな女も、しなやかで、柔らかくて、輝いてる。なぜかしらね。アタシにはどんなブスだろうが性格悪かろうが年とってようが、美しく見える。女という生き物にすごく憧れるわ。それって、絶対女になれないからかしら。手術して女になっても、アタシみたいに女装しても、女として生まれた女にはどうしても手が届かないのね。手が届かないからこそ手を伸ばし続けてしまうの。より女性に近付きたい、より美しくなりたいってね。だけどね、これも一つの苦しみだと思うわ。アタシ自身が作り出してる苦しみ。クリエイティブな行為だと思わない?これに気付いてからは、生きるのが随分楽しくなったわ」


冬のテラス席は寒くて凍えそうで、自分では決して選ばない。
それなのにこのケルンの、この人が目の前で笑っているこの席は、心まで温かくて、いつまでも座っていたいとFは思った。

「アタシ昔ね、マイノリティー界の富裕層みたいな時代を過ごしたの」

「マイノリティー界の富裕層?」

「そう。髪は見ての通り天然パーマだし、親も早くに亡くして貧乏だったし、混血だし、イイ男だし?そのうえ男が好きで、ナヨナヨしたオカマだったし。言うのもつらいんだけど、差別されるものを何でも持ってた。ひどいこと言われたし、されてきたわよ。でもその苦しみの中で、あたしは価値のあるものだけを作り出すことができるようになった。宝石をいっぱい集めることができたの。だからこの苦しみはあたしだけのもの。勝手に人に作らせたりしないわ、絶対に」

笑みが消えふと視線をそらした彼の横顔。Fはもう、ただ美しいと思うほかなかった。Fには、まだ彼の言っていることがすべて理解できなかった。ただ、見惚れていたのだ。彼が経験してきたものが、きっとFの想像を絶するようなものだったであろうことは、彼の目に、彼の皺に、彼の佇まいに深く刻まれている。それでも彼は、それらをすべて大切に抱え込んで、宝石のように輝かせて生きているのだろうか。


「あ。アタシの話ばっかりごめんなさいね。何か話す?」
それにしても彼の、ワインを飲む一口の量がすごいのだ。

「いえ、続けてください」
話より…どれだけ飲むのだろう。それに顔色一つ変わらない。


「それで。あんたの人生についてだったわね。アタシが何か言ってあげられるとしたら…そうね。まさかとは思うけど、あんたって、最初からあきらめたりしてないわよね?自分はどうせ幸せになれないとかって」

Fは、いっぺんに酔いが強い風に吹かれてしまうような気がした。

「どうせ普通じゃない、どうせ人と違う、どうせゲイの恋愛は長続きしないとかって。
図星?でもその「どうせ」って、誰が決めたのかしらね。社会?歴史?マジョリティー?違うと思うわ。それは世の中の決めつけに縛られたあんた自身よ。あんたを攻撃してくる言葉、あんたを攻撃してくる視線、あんたを攻撃してくる期待。それは全部あんたが作り出してるの。あたしが言った苦しみと同じよ。でもそれがあんたを成長させてくれないなら、あんたの気分を上げてくれないなら、宝石じゃないわ。ゴミよ。クソよ。失礼、ウンコよ。いえ、ゴミにもウンコにも悪いぐらいだわ」

美しい言葉しか選ばなさそうな彼が使う汚い言葉は、とても汚くて、ほんとうに価値がないもののように聞こえた。

「ウンコに関連するんだけど、誰が将来あんたの下の世話してくれるって言うの?そんな責任も覚悟もない奴らに、あんたの人生を!時間を!心を!やすやすと明け渡すんじゃないわよ!」

ドスの聞いた甘い声が、夕暮れが覆うケルンの空に優しく響き渡っていった。

Fは、少しの間目を閉じて感じた。
彼の力強い声によって、自分の背中に生えたハリネズミのハリがぽろぽろと落ちて、温かな体温で満たされた生身の自分が生まれる。
近付きたいのに近付けない。ちょうどいい距離感。そんな幻想は、自分自身が勝手に作り出していたのだ。生身の自分を、これまで差し出したことなどなかった。温かい血が流れる自分を、これまで大切に守ったこともなかったのだ。


我に返るともう辺りは暗く、代わりに赤や緑の希望が街に浮かび上がっていた。さすがの彼、いや彼女も酔っぱらってしまったようだった。二人はフラフラとよろめきながら店を出た。

明日は早朝にホテルを出発する。そろそろ帰らなければと、Fは駅へ向かうことを伝えた。またケルンに来ることがあれば一緒に飲みましょうと、彼女は名刺を渡してくれた。


「あのステンドグラスの良さを共有できる人がいて…とっても嬉しかったわ」
彼女は最後に、なぜか恥ずかしそうにそう言った。Fは、自分より大きな彼女の体を抱きしめたくなったが、やめておいた。
彼女は、見えなくなるまでFの背中を見送っていた。



帰りの電車の中でFは、彼女にもらった名刺をじっくりと眺めた。
美しく繊細なデザインの名刺には、“ステンドグラス作家”と書いてあった。


まさか。Fは思い浮かんだ一つの可能性に、鼓動が高鳴った。
もしかして、あの大聖堂の。


車窓に目をやると、光輝くケルン大聖堂、そしてケルンの町並みが、今までとはまるで違って見えた。

あのモザイクのようなステンドグラスに敷き詰められていたのは、彼女が人生で集めてきた宝石だったのかもしれない。



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