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明の中の暗・暗の中の明〜感度を上げて自分を知り世界を知る

 先日子供の幼稚園卒園以来ずっとお付き合いが続いているママ友3人と4人で京都旅行に行って来ました。
 晩秋の京都はどこに行っても美しい紅葉だらけ、計画を担当した私としてもみんなに満足してもらえて本当に楽しい旅行でした。
 
 でも一つ自分で驚いたことがありました。
 初めてのメンバーで2泊3日の旅行をしたことで今まで気がつかなたった自分の一面を発見したことです。
 このメンバーは気の置けない仲間とはこういうことを言うのだろうという典型で、余計な気も使わないでただひたすら楽しかったのです。だから嫌なことは何もなかったのですが、そういう中で自分の意外な側面を見たのでした。

 この世に起こる全てのことは自分の心の反映なのだと納得してから、嫌な人に会ったり嫌な目に遭ったり、があると自分の中の何がこういうことを起こすのかなと反省的に考えたりしますが、今回のように無条件に楽しい仲間との楽しい関係の中でそういう自分の新しい面を見つけるというのは私にとってはとても新鮮な体験でした。その側面とはどちらかというと自分の至らないところだったのだけど、嫌な気持ちがするというのでは全くなくて、ただ、自分にこんなところがあったんだなあ、という感じです。
 
 まだ自分に起こることが自分の心の反映である、などということを考えもしなかった頃は、人は幸せと不幸を半々味わうものだと単純に信じていました。だから幸せなことがあればそれがいつまで続くのか?と逆に不安になったりもしたものです。いわゆる幸せが怖い、という状態。
 でも、これは物事をざっくり見ていたということなのだなと改めて思います。幸せと不幸の二項対立で見ていたということですから。
 世の中には明と暗があるのも一つの側面ですが、実際にはその中に多くのグラデーションがあって、本当の暗闇とか絶対の光の世界というのが実際は日常の中には存在していないと言っても過言ではないでしょう。
 四国の直島のジェームス・タレルと安藤忠雄のコラボレーションの作品〜家プロジェクト 南寺 ではその家に入ると一瞬真っ暗で何も見えないのですが、時間が経って目が慣れてくると徐々に四角いスクリーンのような光がボーッと浮かび上がって来ます。
 実人生も荒く捉えていれば、世の中、明と暗、幸と不幸しかないみたいに感じてしまいますが、もっと感度を上げて生きていくと、明の中の暗、暗の中の明、幸の中の不幸、不幸の中の幸が見えて来ます。

 幸せはいつまでも続くことなんてなくて、そのうちまた落ち込んでいくのだろう、そう考えていればそうなるものかもしれませんが、今の私はそういう考えはもう放棄することにしました。
 幸せとか不幸とか決めることなどないし、自分も至らないところは至らないとしても、それも私の個性の裏側だし、できた友達の間に入ると至らなさが目立つ、というだけのこと。そんな自分の側面を知ることができたのは楽しい体験だと心から思えます。
 だから昔感じたような幸せが怖いということも今はありません。

 良いことがあれば喜び、悪いことがあると凹み、というのは、明暗の大きなコントラストに意識が引っ張られていることから来るので、物事のグレーの部分を見つめる習慣をつけていくとそのコントラストに踊らされなくなるのだと思います。
 ついこのまえのW杯クロアチアとブラジル戦で先に点を入れたブラジルがもう勝ったかのごとくに喜んでいましたが、結局その後同点においつかれてPK戦で敗退してしまいました。
 私は録画でしか見ていないので結果を知っていたからというのもありますが、先制点で喜び過ぎたんじゃないかと思いました。
 一喜一憂という言葉がありますが、結局あまりに感情に引かれると冷静さを失う典型ではないかと思います。
 良いことも悪いことも明るいことも暗いことも一息入れてじっと見つめることでものの実際の姿が浮き上がって来ます。
 血糖値を上げ過ぎないことが肥満の防止になるのと同じような原理ですね。
 こういうことを書くと感情のない生活を推進しているみたいに解釈する人がいますが、それは誤解です。むしろ感情生活をよりきめ細かくしていくことで、物事に対する感度が上がるので、本当に感動することに出会うとより感動が大きくなったりします。感謝の念で胸がいっぱいになったり、美しい物を見て涙が出そうになったり。
 
 大きな波をかぶる前に体を委ねて、その細かな波の一つ一つを味わっていく、そんなイメージですね。

 明の中の暗、暗の中の明、そのグレイを追っていくと面白い発見があるかもしれません。
 

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