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マイルド・サイコパスの脳は私の脳と違う?

 サイコパスについて二冊の本を手掛かりに勉強していくうちに、身近な人の中にもかなりこの特徴に近い人がいることに気が付きました。
 今まで軋轢を持つことが多かったそれらの人々がこのサイコパス的脳の持ち主だと考えると、今までもやもやしていたものが霧が晴れてはっきり形が見えてくるような気持ちがしました。
 彼ら、サイコパス的な人々は自己中心的で、他人の痛みに鈍感で逆に自分の利益への関心が高くそのために他者を利用することにためらいがない、そのため嘘をつく、自分の利益のために人を騙す、約束を破る、など、人として許されない行為を平気でする、というのがあります。
 まあ、そういう明らかなサイコパスは可能であれば関わらないようにするでしょう。関われば被害に遭いますから。関わって被害にあって気がつくというのもありますが。
 でも、現実の日常生活の中で問題なのは社会人としての常識はあっても、実は自己中心的で、人の気持ちに寄り添うことができない人たちではないでしょうか。 
 関わりたくなくても離れられない理由として家族の一員だということもしばしば起こります。毒親とかモラ夫と呼ばれる人はまさにこのタイプが結構多いのではないかと思います。
 そういう人たちをここではマイルド・サイコパスと呼ぼうと思います。
 サイコパスというと少し強い言葉に聞こえるかもしれませんが、そこはあえてそうした方がいいと私は思うからです。
 社会の中では常識的に生きているマイルド・サイコパスは外では頑張って普通の人やいい人を演じている分、身内に対してだけ自己中心的な面を全開させることも多いようです。
 その彼らに対する方としては、親や兄弟や長年連れ添ったパートナーなど、家族や身内となるとどうしても強い気持ちになることが難しくなりがちだと思います。
 責められれば自分が悪かったのか?自分はどうすれば良かったのか?と悶々と悩んでしまうこともあります。
 そして、どんなに嫌な思いをしても、やっぱり血が繋がっているからとか、根はいい人なんだけど、とか、優しいところもある、というような「情」が出てきて相手を許せない自分が悪いのかとまた自分を責めてしまったり、もあるでしょう。
 でも、今回このサイコパスについての本を読んでいるうちに、その彼らの脳自体が私たちの脳と著しく違っている可能性があるのじゃないか?と思い始めたのです。
 人は他人も自分と同じように考え感じる、と思いがちです。
 でも同じ家族の中で育った兄弟でも、遺伝子をある程度共有している親子であっても、脳の働きが全然違っていれば、考え方や感じ方も著しく違っていることもありうるのだ、ということです。

 中野信子さんの「サイコパス」ではサイコパスの人の脳の特徴を以下のように挙げています。(P82)
①扁桃体の活動が低い
②眼窩前頭前皮質や内側前頭前皮質の活動が低い
③扁桃体と眼窩前頭前皮質や内側前頭前皮質の結びつきが弱い
これらいずれかの理由、あるいは複合することで、恐怖や罰から社会的な文脈を学習して痛みや罪、恥の意識を覚えることができません。
 一方、サイコパスとは逆に、前頭前皮質と扁桃体の結びつきが強すぎる人もいます。このような人は、社会的不安障害(対人恐怖など)やパニック障害、鬱などに罹患しやすいこともわかっています。

 これらの詳しい解説は私には手に余るので直接本にアクセスして欲しいと思いますがWikipediaによる脳の各部位についての簡単な解説だけ転載しておきます。
扁桃体:情動反応の処理と記憶において主要な役割を持つことが示されており、大脳辺縁系の一部であると考えられている。

・前頭前皮質:この脳領域は複雑な認知行動の計画、人格の発現、適切な社会的行動の調節に関わっているとされている。この脳領域の基本的な活動は、自身の内的ゴールに従って、考えや行動を編成することにあると考えられる。

 以前、知人から聞いた話を思い出しました。
 保護した猫を飼う人が見つからずに自分で飼い始めたのが、その猫がいうことを聞かないので困っていたのだけど、ある時音に反応していないことに気がつく。その猫は真っ白で目がオッドアイ、右と左の目がブルーとグリーンという違う色だったのが、こういう猫は耳に障害があることが多いということを知り、調べたら実際に耳が聞こえていなかった。
 という話です。その猫の性格が悪かったのではなく、耳が聞こえなかっただけだった、というわけです。
 マイルド・サイコパスの人もある意味この猫の話と同じではないか?と考えたらどうでしょうか?
 生得的なものか、遺伝か、育った環境のせいか、現実的にはおそらくその三つが重なって、脳の機能が不活発な場所があるせいで、私が感じられる他者の痛みを自分のものとして感じる能力が非常に低いとしたら、これも一つの身体的な障害のようなものではないか、ということになります。
 全ての身体障害がそうであるように障害自体は悪いことでも、劣ることでもありません。
 ただし、身体の障害とその人が取る行動は切り分けて考える必要があると思うのです。
 たとえ障害が原因だったとしても罪は罪、許されるものではないと思うのです。
 脳の機能の低下によって人への配慮を欠いたり人を傷つけたりしてしまうことが許されることではなくても、本人が気がつかないでやっているとしたら傷つけられたものの方も対処の仕方を変える必要はあるのではないか、ということです。
 耳が聞こえない猫にいくら叱り付けても何のこと?ということになってしまいます。
 実際に私は過去にそういう人に自分が傷ついたことを伝えても、逆ギレされたり何のことを言っているかわからない、という反応をされたことがあります。
 その時は自分の言い方が悪かったのか?この人の心は鬼なのか?と思っていましたが、本当にただわからなかっただけなのかもしれない、と今では思います。
 あの人が自分を傷つけたのはそれで人が傷つく、ということを基本的に知らないから、という見方をしてみると、その人に対する見方も少し変わってくるのではないでしょうか?
 冷静な判断として、彼らには人を思いやるという能力それ自体が低いのだ、と理解するのです。
 その上で、でもそれがたとえ障害のせいだったとしても自分が傷つけられることを許せば自分の自分に対する暴力と同じことです。
 今起こっている戦争についてプーチンを擁護するような人もいるそうですが、どんな理由があっても一方的な暴力や破壊行為は許されるものではないと思います。その人を理解することと行動を受け入れることとは全く別の次元です。
 理解は必要だとしても理解をした上の対処が受ける側にも必要だということです。
 マイルド・サイコパスを身内に持つ人は逆に共感能力が高すぎる場合もあります。そうすると自分がどんなことをされてきたとしてもつい情が出て、相手に対してきっちり線を引けなくなったりすることもありがちです。
 その線を引くため、相手には自分の持っている共感という機能が備わっていないのだ、という認識をしっかり持つことが重要になるのではないか、と私は思うのです。
 そして、その共感能力の欠如こそがもしかしたらマイルド・サイコパスのコンプレックスや孤独の種になっていて、それを埋め合わせるために自己中心的で支配的な行動を家族や身内に対してとっているのではないか、とも思います。
 このことについてはまた別に考えてみたいと思います。
 まとめると、マイルド・サイコパスに対しての対応は、
・その人が悪い人間なのではなく、「私の気持ちをわかる機能を持っていない」と理解し
・もし傷つけられた時には、私はあなたの・・・(具体的な内容)に傷ついた、以後、同じことを繰り返さないでほしい、と言葉で伝える。
・こういう積み重ねをしても改善しないならその人との関係は諦め距離を置く。
もし今までの関係の中で耐えがたいものがあったなら、さっさと距離を置くことを選ぶのもいいかもしれません。
 どちらにしても、いつかわかってくれるようになる、といういつかは永遠に来ないと思った方がいいと思います。
 一つの身体的機能を失っている人が自然に機能を回復するということはあり得ませんから。
 もしあるとしたら、本人が自分の機能の低下に気がつき、改善するために努力するときに限るでしょう。
 実際、サイコパス・インサイドの著者ジェームス・ファロンはそうしているようです。

 

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