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わたしのこと。【幼少期〜高校時代 概要編】

こんばんは、エリーです。

今やっていること、今考えていること、今好きなこと・・
その都度変わる自分のことを、今の自分のために、未来の自分のために、ひいては未来の誰かのために役に立つと思うので、日々書き連ねていきます。

もともとと文字を書くのは大好きなので、どんな作品が積み重なっていくのか、自分でもわからないけどとても楽しみです。

【わたしのこと】
まずは、自分の歴史の整理も兼ねて。

・1989年2月13日(月)生まれ。
昭和63,64,平成元年のいる学年で、わたしは平成生まれだったので、節目節目で「平成が入ってくるよ」「平成生まれなんだ!」などとチヤホヤされながら育つ。
兄弟姉妹はなし、実家は祖父の代から80年続いた薬局(現在は閉業)、1階が店舗で2階が住居だったので、子どもの頃は店に入り浸ってバイトのお兄さんお姉さんに遊んでもらっていた。そのおかげか、子どもの頃から大人と会話ができた。

・幼稚園時代
近所の大学附属の幼稚園に通う。幼少期から子どもが嫌いで「なんでこんな子どもと遊ばなきゃいけないんだろう」と毎日思いながら過ごしていたので、大して楽しかった記憶はないが、担任の先生のことは大好きで、遠足などのお出かけの場面では常に先生に手を繋いでもらい、先生の横をキープしていた。この頃から年上に可愛がってもらうのが得意。

・小学校時代
そのまま大学附属の小学校へ通う(私立なので受験あり)。各学年一クラスのみでクラス替えがなかったため、六年間同じクラスで過ごすという大都会とは思えない閉鎖的な空間で、当時も苦痛だったし今振り返っても苦痛でしかない六年間だった。
今思えばクラスメイトはみんな心根の優しい子たちばかりだったと思うが、子どもであるが故に合わない奴と対立したり、特に自我が芽生えて中学受験に向けての心理的バトルが始まる小五くらいからは、人間関係に悩みが多かったと記憶している。
殆どが附属の中学に内申で進学する中、わたしは数少ない外部受験組だったので(なぜならその附属の中高はクソほど偏差値が低い)、小四から塾に通い始めた。小五のとき「毎日があっという間だな」と初めて自覚してから、「毎日があっという間」ではなかった日は今日の日まで一度たりともない。
わたしはそれなりに要領もよく賢い子どもだったと思うが、算数が壊滅的にできなかったので、大学受験のように得意科目だけで受けられない中学受験には大きく響いた。おかげで第一志望だった某有名私立女子校は受験することすらできず(中学受験は2/1~3の三日間が勝負なので、アレコレ受けて回る余裕がない)、少しランクを落とした学校に絞って受験し、なんとか受かったその中学に入学した。

・中学時代
千代田区にあるそこそこ有名な私立の女子校に通う。家からはドアトゥドアで五十分。朝は満員電車だったが、小学校から電車通学だし、若かったのでそんなに辛かった記憶はない。
わたしは自分が自分の人生を生き始めたのは、中学校からだったと認識している。それまでは自分で何か重要な選択をしたり決定をするということがあまりなかったように記憶しているが、中学校から(正確には中学受験でこの学校に行くと決めた時から)は全て、失敗も含め自分で決めてきた。
そんなわたしがなぜか選んだ部活は軟式テニス部で(うちの中高は軟式しかない)、正確な動機は思い出せないが、スコートが履けるしなんか女子っぽいし青春ぽいから、といったところじゃなかろうか。中学三年間はクラスの友人に恵まれなかったが、部活の友人はとても大切な仲間になった。
先ほど要領がよく賢い子どもだったと書いたが、これは今でも言えるのだけど、何か新しいことを始めるにあたって、その「さわり」を掴むまでに人より時間がかかる方だ。それを人生で初めて強く認識したのがこのテニスで、夏の入口ごろに先輩たちの練習が終わったコートで初めて壁打ちをさせてもらったとき、他の子はすぐにできるようになったのに、わたしは一向にラケットに球を当てることすらできなかった。その時は「あれ?なんで当たらないんだろう?ま、いっか」くらいだったのだが、当然よいわけがなく、夏の終わりに中一部員15名くらいいたうち、12名は出してもらえるような練習試合にわたしは選ばれなかった。悔しいというより、とても恥ずかしかった。
このこともターニングポイントだったし、秋の終わりくらいまでにテニスというものをだいぶ体が覚えてきたのもあり、元来まじめな性格のわたしは全ての練習に休まず参加し鍛錬を重ねた結果、冬ごろから練習試合や本試合で勝てるようになった。そこからはメキメキ上達して、ペアになった後衛の子がとても上手だったのもあり、中二の秋の地区大会でベスト4に残って表彰されたり、中三の初めには部長を追い抜いて一番手になった。今思い出してもめくるめく青春の日々だった。しかしながらそれも一瞬で、一番手になった途端「勝てば褒められる」から「勝たないと怒鳴られる」ポジションになり、元来怒られるのが大嫌いなわたしは、大好きだったテニスも大嫌いになってしまった。程なくしてやる気を失い、夏前に「絶対に中学で引退する」宣言をして以来、当然地区大会や都大会で大した成績も残せず、学年全員が高校に上がっても部活を続ける選択をする中、わたしは秋の引退試合で潔くテニスから足を洗った。あのとき未練が一欠片もなかったといえば嘘になるが、あの三年間はとても大切な思い出で、今でもラケットは捨てずに取ってあるけれど、テニスをしたいと思うことはない。

・高校時代
中高一貫なのでエスカレーターで高校へ進学。高校三年間はクラスメイトに恵まれてとても楽しい日々だった。
これまで日々の全てをテニスに費やしていたわたしは、中三の秋に引退してからというもの毎日暇を持て余していた。実家の薬局でバイトをしてみたり、図書館に通って教養を増やそうとしてもみたけれど、どちらも性に合わずまるで楽しくなかった。そんな高一の冬、友達から文化祭の実行委員長を一緒にやらないかと持ちかけられた。実行委員(以下、文実)なんてザ・まじめキャラの人たちがやる、ぶっちゃけあまり憧れないポジションという認識で、自分には無縁のはずだったのだが、あまりに毎日が暇だったのもあるし、まだ見ぬ光に溢れた将来のためにどんな経験もしてみたい、と思っていた当時のわたしは、その申し出を二つ返事で引き受けた。あれは神様が与えてくれた大きなチャンスで、人生のターニングポイントの一つだった。詳しくは割愛するが、リーダーとして人をまとめ動かし、TODOとスケジュールを管理し、一つのイベントを作り上げるという経験は、わたしの人生に間違いなく大きく影響し、今日までの糧になっている。
高二の文化祭までを実行委員長として忙しく過ごしたあと、秋からは塾に通い出して毎日が大学受験一色になった。受験生時代は目が回るほど忙しく、一日13時間勉強することを自分に課し、一番の望みは「好きなだけ寝ること」というくらいハードな日々だったが、勉強は嫌いでなかったので(数学を除く)、暗記勉強しただけテストで点が取れる受験のような分かりやすい競技は、今思えば日本の学校教育のせいで思考停止していた当時のわたしにとってはそれなりに楽しいものだった。
高校時代の成功体験はもうひとつある。先に述べた実行委員長を引き受けるにあたり、これまで中間期末テスト前に一夜漬けで勉強していたわたしは、おそらく文実のせいでその時間が取れなくなるだろうと思ったから(実際はテスト勉強ができなくなるほど忙しくはなかった)、それを恐れて全てのテストがある教科の復習を必ずその日の帰宅後にやることにしたのだが、これが思いもよらない結果をもたらした。実際にテストが楽になったとか、手応えを感じるようになったといった自覚はなかったのだが、一夜漬け大吉から毎日復習作戦にシフトしたことで、それまでの四年間ずっと学年順位二桁代後半の成績だったのが、突然十番以内に入るようになった(学年は280名程度)。これは自分でも驚くべき飛躍で、最初はまぐれかと思ったのだが以降もテストのたびに一桁の順位を叩き出した。記憶力も集中力もあの頃より衰えた今となっては当たり前のことなのだが、一夜漬けでもテストに耐えうる記憶力を持っていた16歳のわたしにとって「一度で詰め込むよりも、コツコツ繰り返し勉強した方が良い結果になるんだ」という気付きは衝撃的というか、はっきり言って革命的だった。以後、塾の合同試験でも軒並み全教科上位の成績を出し、その順位表が張り出されて周囲をざわつかせたり、全国模試に毎度名前が乗ったりしてクラスをざわつかせたりした。今でも鳥肌が立つほど、ものすごい優越感と快感だった。
「この子は受かるんだろうな」と周りの友達や先生にも言われたり思われていたわたしは、なんとか高三の冬までその集中力をキープし、第一志望の大学に合格した。あれだけ勉強してもどこかで絶対的な自信を持ちきれずにいたのと、本番(国立二次試験)でありえない大失敗をしたのもあって、合格発表当日は足が震えて、大学最寄りの駅から受験番号が張り出された掲示板にたどり着くまで、全く足が動かず生まれたての子鹿みたいな歩き方になってしまった。あの時見えていた景色は今でも鮮明に網膜に残っているし、掲示板に張り出された116の数字(わたしの受験番号)は一生忘れない。
大学受験に費やした一年間は「死に物狂いで努力すること」という経験、「あれだけやったら大丈夫、という確信とはどういうものか」「努力は絶対に裏切らない」という真理を教えてくれた、かけがえのない体験になった。





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