はたしてオンライン対戦はゲーマーを幸せにしたのか

「ネット社会は人々を幸せにしたのか」という自分が好きなテーマのよりミクロにするならば、オンライン対戦の登場はゲーマーにとって幸せなことだったのかという議題も成立する。


よくネットで「RPGでその世界の勇者になったと思ったら、すぐオンラインに連れて行かれて自分が末端の雑魚だと気付かせられる」という意見を見かける。

別の表現をするならば地方ローカルでスポーツ上手いとイキッてたらいきなり全国大会に連れて行かれて現実を突きつけられるという現象とも似ている。


とくに今の時代どのゲームも「ガチ化」していて、そのゲームに夢を見て始めたばかりの初心者が行きつく先は経験者との愕然とした追いつけないほどの差でしかない。

どのゲームも既存層がある程度確立されていて、昔からずっとやり続けている経験者には勝てないし、その自分が勝てない経験者ですらその世界では最下層であることが多い。

将棋やチェスと一緒でFPSや格ゲーは最低でも10代前半の時期からやりこんでいなければ、よほどの才能がない限り上級者にはなれない。脳の仕様を成長期にそのゲームに特化させるようなことが無ければ成人してからの努力では追いつけない。それどころかもはやどれだけ努力をしても中級者にすらなれないほど世界さえ存在する。

更に言えば10代の頃の無限の情熱でなければ努力も続かず、結局先行者には追いつけない現実がある。


こういったオンライン対戦の現実を見ると地方ローカルコミュニティでワイワイ身内と対戦して盛り上がってた頃の方が楽しかったよなぁと考えることがある。

それは自分が子供だったから楽しかったというのもあるかもしれない。

「オンライン対戦は世の中を面白くなくした」といいつつもいざ今更オンライン対戦がない時代には戻れないし今戻ってもそれほど昔が楽しくはなかったという単なる懐古補正に気付くだろう。


更に言えば大人や社会人になったらそもそも学校の友達のような存在もいなくなり付き合いは限定的になるので「あのころの楽しい仲間たちとのゲーム対戦」というもの自体が成立しない。大人になると学生時代のような友人は作りにくくなる。


ネットの音声やテキストのチャットの仲間というのも実際はお互い気を使って子供のころの様に打ち解けあえなかったり、そもそも社会人同士でスケジュールが合わなかったりするのが現実で結局一人で気楽にすることが最適解になってしまう。

相手がいつまでも同じゲームに付き合ってくれるという保証もなく、お互いゲームといういつ切れて割れてもおかしくはない糸や薄氷のような関係でしかないので疎遠になって散るときは一瞬の人間関係だ。


結局そうなると対戦相手は無名のオンラインにしか存在しないわけで「対戦相手の確保」という意味ではオンラインしかないのも現実だ。

昔のようなアナログ形式ならばいつも同じ対戦相手になってしまうだろうし、そもそも対戦相手がおらずCPUと対戦するしかなくなる。


しかし昔のゲームはそもそもオフライン前提で作られており、CPUと対戦してれば十分楽しめた時代でありゲーム内の強大な敵を倒していたころの方が楽しかったという思いもやはりある。

オンライン対戦前提の時代になったからこそオフラインで楽しめる深みのあるゲームというものが少なくなり、結局世の中はそのオンライン対戦すら衰退しソシャゲの時代かゲーム実況を見る時代になった。

「自分が大人になった頃のゲーム凄いんだろうなぁ」とワクワクしていたら、実際に行きついたのはソシャゲとゲーム実況の時代だ。そのうちバーチャルユーチューバーのキ○ナアイが宣伝するためのソシャゲのガチャを引く動画が投稿されてそれが最適解になるに違いない。

理想の未来のゲーム:最先端の技術を駆使し壮大な世界観で繰り広げられる戦い

現実にやってきた未来のゲーム:ユーチューバーがガチャを引いてリアクションするためのソーシャルゲーム

結局技術発展の末に行き着くところがただのゲーム登場以前からあるようなパズルとガチャガチャだったのだ。


「VR登場!」みたいな新しい技術が最近出てきているものの、実際はたいした未来にならないんだろうなぁとも思う。タッチパネルという技術革新が生み出したのはただのソシャゲ全盛期の時代だったのだからもはや技術革新に期待してはいけない。Wiiのリモコンも出てきたときは目新しかったが今では完全に消えてしまっているし、もうこういった目新しさよりもスマホで手軽にできるカジュアルさが勝ってしまう時代になっている。

漠然ともういろんなものが華やかに発展していき、輝かしい壮大な未来が待っている時代ではないというのがゲームでも起きているだけの話なのだろう。

理想:未来の車は空を飛ぶしかっこいいデザインに違いない!

現実:リッター何kmという燃費をアピールして、みんな軽自動車を買う時代

思ったほど世の中発展しないし、利便性や手に入りやすさが優先するのが現実なのだ。

高級車なんて結局買える人はわずかだし、ゲームのために最先端のゲーム環境をそろえられる人はわずかなのだという市場の原理には抗えない。その結果コンシューマーゲームなら数世代前の技術であっても、スマホで多くの人が快適にプレーできるようなゲームが資本主義の原理によって軽自動車の様に普及する。

ファストフード、軽自動車、そしてソシャゲ、現実というのはそんなものだ。

街中でいかつい数千万円の改造車や高級車をひけらかすより、SNSでソシャゲの廃課金データを自慢したほうがよほど反応ももらえるし承認欲求を満たせる。そういうスケールの小さい満足を追い求める時代になった。


更に言えばソーシャルゲーム全盛の時代になったのも、結局ガチ化したオンライン対戦は新規参入者にとってあまりにもハードルの高い世界なのだからだろう。

実際自分もPS4を持って、テレビを揃えて、オンライン対戦できるようにして、真剣に対戦をしているわけではなく今の時代据え置きのテレビゲーム機を持つこと自体が叶わない夢になっている。

わざわざ自分の部屋、ネット固定回線、テレビやモニターをそろえPS4やハイスペックPCを揃えて、わざわざ机や椅子まで快適なものを揃えてやっとの思いで挑んだ世界は昔から強いゲーマーのサンドバックにされるしかない悲しい現実だ。

そうなると課金すれば一瞬で強くなれて、プレー技術を磨くことよりも所有欲を満たすソシャゲにみんな以降してしまうのも仕方ないことだ。いくら世界のゲームシーンでもてはやされてるゲームを苦労してやっても周りには誰も仲間がいないが、ソシャゲのメジャータイトルなら話が合う人が大勢いる。

フードコードでワイワイ仲間と食べる手頃な値段のファストフード>>>>>一人でむなしく食べる上に作法やマナーも必要な高級懐石料理やオードブル

経済や未来が明るくなっていかない時代に、誰かと盛り上がれる身近なものが選ばれるのが時代の流れだ。

乗せる相手もおらず車だけに予算を使って一人で滑走するスポーツカーより、家族で乗る軽自動車のほうが実際は幸せなのだ。

「俺は味をわかっている、休日牛丼屋にいく家族連れワロス」と言いながら独身男性が一人料亭で食事して風俗に行くしかない現実よりも、ショッピングモールのフードコートの味で満足できる家族のほうが実際は幸福なのかもしれない。高級なものの質を理解しているが家族の暖かさは知らないのがネットでマウントをとる情報強者の実態だ。


ネットでは最先端のゲーミングPCで好成績を叩き出しレアアイテムを保有している人や高級車を持ってグルメ生活を満喫している人の方が偉いが、実際にはワイワイ身内とフードコートでソシャゲを楽しんでいる学生や軽自動車で家族と一緒にフードコートに行っている底辺ファミリーの方が実際は人生をエンジョイしている。

後者の生き方ができないからこそ自分が世間の愚かな大衆より上級の選民になったと錯覚できる前者を選ぶ、それが「ガチ勢」の悲しい実態だ。

自分も実際はそういうゲームやネットの世界に閉じこもるしかない寂しい人間の一人なのでもちろん自嘲気味だ。これは完全なる自虐で、子供のころのような時代にはこれからいくらがんばっても戻れないんだろうなと考えると悲しくなることもある。自分がそうやって新しい家族を幸せにする側にもなれないし、そしてあの頃にも戻れない。

どれだけ高級車を走らせて高級寿司屋に行っても、食事が終わって店を出た直後に偶然家族連れが通りすぎれば途端に虚無感に襲われるという人も今は増えてきている。

逆に家族連れやカップルでワイワイ安いところで食事を済ませた側は「いつか孫や子供にここに連れてきてもらえるかな、いや頑張ってここに来れるようにしよう」とポジティブになれるのかもしれない。(その感覚は家族連れでもないのでわからないが)


少子化の時代になり子供も増えていかないし、ゲームは高くなりどの家庭にも据え置き機がある時代というのはもはやセピア色のアルバムの中にしか載っていない絶滅した光景だ。

子供の数自体が少なく、もう今の小学校でクラスメイトがPS4持ってるからコントローラーだけ持って夏休みはそいつの家に毎日他の仲間と通うなんてこともないのだろう。

そもそも今の時代は息苦しくなっていて、トラブルがあると面倒なので友達の家に入れてもらえず公園で3DSをするしかない時代である。もちろん公園はカナダの人口に匹敵する3000万人を誇る日本の高齢者様のお散歩ための場所なので騒ぐことはできないしスポーツもできないし遊具もない。秘密基地を作れば条例に反するのでそんなこともできない。秘密基地を作れるような寛容な田舎にはそもそも子供がいない。


結局小学生のころは3DS、中高生になればソシャゲ、これが現実だ。(最近では小学生すらソシャゲを選んで、ゲーム実況を見る時代だが)

それ以前にもう子供が集まるほどの人口規模がある都市や街自体が減少しつつある。残念ながら日本がゲームの最先端の国であり和ゲーがもてはやされた時代は終焉している。


その結果現実には独身の成人男性が一人でむなしく大人になってもゲームをしているだけであり、そこに華やかさはない。ゲーミングPCともなると普及率はさらに絶望的だろう。


その結果新規参入者は増えていかず、既存層のガチ勢ばかりになり過疎化と反比例するようにガチ化だけは進んでいくのが現実だ。

自分はPS4は持っていないがPCでゲームをする立場なのでこの現実はよくわかる。

WOTという戦車ゲームがあるのだが、これも黎明期の頃はカオスな空間だった。しかし徐々に過疎化が現実になり始めて「WOTですら運営で採算が取れなくなればいつかサービス終了するんだろうな」という現実に気付き始めてしまった。オンラインゲームはもうオワコンで、結局ゲームというものの価値はプレー人口なのだ。どれだけよいゲームでも流行らなければ終焉する。

画一的なショッピングモールが街の個性ある商店街を駆逐していくのが現実だ。

コミュニケーション以上の快楽はない、ゲームは誰かとやるから楽しい、その価値にどれだけ高クオリティのゲームも抗うことはできない。

これが「家族で食べるファストフードは一人虚しく食べる懐石料理を超える理論」の応用だ。


初心者が多い時期だからこそ「なんだコイツは」というわけのわからない奴がいるものだが、ある程度時間が経つとそれぞれ練度が高くなり小慣れてくるようになる。

最近新しく流行ったスプラトゥーンですらもう続編ではガチ化しており、にわかの象徴だったモンハンですらとっくの昔にガチ化している。


ガチ化というのは過疎化と同時に「ワイワイ感」を失わせる原因にもなる。

例えばポケモンのオンライン対戦もダイヤモンド・パールの頃のバトレボ(バトルレボリューション)というWiiのソフトが流行っていたころは「好きなポケモンを使って個性を出したほうが面白い」という時代で、その風潮を許容するような文化があった。

しかしだんだんオンライン対戦が普及し始め、レートという数値が導入されると数字に誰もが目がくらみ逆にゲームはガチにやるものだろというガツガツとした雰囲気になっていった。

対戦自体は高度になった一方で多様性は失われ、すぐさま普及する攻略情報のテンプレ通りのものが大半を占めるようになっていく。

ポケモンのようなキャラゲーですら結局、一番性能の高い武器を選ぶような感覚になっていったのだ。


そういう姿を見ていると、それこそオンライン対戦すらない時代の小学校のローカルコミュニティで通信ケーブルでやっていたような対戦の方が文化としては華やかだったよなぁと懐古せずにはいられない。

それぞれの奴らが育ててるモンスターに個性があったし、学校に休日集まってワイワイやってたのはレベルは低くても体感としては面白かった。


ローカルコミュニティで攻略情報なしでやってた頃>>>>黎明期のオンライン対戦>>>>>>>>今のオンライン接続率1%切ってガチ勢しか残ってないサンムーンの環境

これが体感としての面白さの順位づけだろうか。


ローカルコミュニティの頃はガチでポケモンの大会に参加している人や、オフ会で大会を開いている人はかなり凄そうな人たちに見えたし、「華やかなゲーマーたちの社交場」にも思えた。

金銀ぐらいの頃にポケモンのアナログの大会に参加していた人はかなりガチ感があって、本物のゲーム好きだったんだろうなともはや伝説になっている。


それでいえば最近の環境でも対戦掲示板でノリよくみんなでワイワイしていたころは面白かったが、そこに突然マジになるユーザーが現れてその雰囲気や空気が壊れたこともあった。

結局今のゲーム環境というのはマジになるタイプのユーザーしか残ってないような時代になっているともいえる。遊びのフットサルにガチなテンションでまじってくる全国大会経験者がいるような感覚だろうか。

そして友人とワイワイやるような「ゲームはコミュニケーションツールなので流行ってるからやります」というタイプのユーザーは全員ソシャゲに行ってしまった。

その結果カオスな初心者というのは淘汰されて中々ゲームのオンライン対戦にはもうワイワイとした雰囲気はない。


例えばモンハンも自分はそれほど詳しくないのだが、最適解の完璧な装備で参加しなければ「そんな雑魚で来るんじゃねぇよ」という雰囲気で見られたり、ガンダムバーサスシリーズも弱いプレイヤーは相方に迷惑をかけられない雰囲気になったりしていると聞く。

ゲームはどこもギスギスした陰湿な世界になっているのが現実だ。

CODシリーズも昔は弱い銃で変なプレーしますという動画が受けたらしいが、今は有益な情報を提供する攻略動画が主流となっているようだ。

ポケモンの対戦動画も全く同じことが起きていて、「そんなポケモン使うのかよ笑」という和気あいあいとしたノリの良さはなくなっている。

そもそもネット全体からノリの良さが無くなってきておりマジレス厨の世の中になっている、そしてこれは「昔ながらのネットの下町のような温かみとカオス感のある雰囲気が無くなった」という話とも共通するのだ。


遊戯王のようなTCGだっていつのまにか好きなデッキよりも勝つデッキが至上主義になり、小学生ですらネットで最適解のデッキが選べるようになった。攻略情報がもはや前提として普及しており、その敷居を超えられないものには参加資格という市民権がない。

あらゆるコンテンツがもう今の時代ガチ化して、部外者には立ち入りの難しい矮小な世界になっており最初から新規参入を諦める時代になっている。

そう考えると小学校のローカルコミュニティや地方のカードショップで低レベルながらも「俺が考えた最強のデッキ」同士をぶつけ合っていた時代の方が体感の文化としては面白かったよなぁとも思う。


世の中のコンテンツがガチ化に向かう雰囲気にあるのは仕方ないといえば仕方ないし避けられない運命にある。

逆にガチ化が進まないコンテンツというのはそれは底が浅いだけにすぎず、じゃんけんを対戦ツールとしてガチで極める人などほとんどいないことと似ている。

人類は発展する方に向かう運命にあるが、同時にそれは人間の温かみという意味では衰退していく。

ネットの登場もローカルコミュニティを崩壊させ、うわべだけのネットの関係が増えているというのはアメリカのフェイスブックに関する議論でもよく見かける。ネットのゲーム仲間も結局はゲームがあるからだけの関係で、友達だから一緒にゲームをやっているという関係とは順序が逆でしかない。つまりゲームが終わればそれは同時の人間関係も終わる。


これはオタク文化だけに言えることではない。

リア充や陽キャもSNSやLINEなんてしてないで、深夜にファミレスぐらいしか集まる場所がなかった時代のほうが実は幸せだったんじゃないかなとは思う。


最近24時間営業のファミレスがだんだんと営業時間を縮小しているらしいが、それもLINEやSNSで孤独が癒せるし一体感が得られるから外に出る必要が無くなったみたいな理由が原因でもある。

もう部屋には電話しか外部とのコミュニケーション手段がない時代は終わったのだ。


その結果タイムラインに表示されるどうでもいい身内の子育て情報やインスタ映えスポットめぐりのリア充アピールをみて「SNS疲れ」する時代なんて誰も得していない。

アピールされる方はうざいし、アピールするほうも本来はなかったはずの無駄な承認欲求に苛まれて疲れてしまう。

本来リア充はこういうことを街中でやっていれば楽しかったのにネットのノリの悪さや暗さにがっかりする、そしてネットに居場所を求めるオタクはこういうことをされればうざい、結局どちらも得していないではないか。


それでいえば秋葉原というオタクの聖地やカードショップというTCGゲーマーの社交場が衰退したのも、今の時代ネット通販ですべてが揃うからだろう。オタクは手に入れたいもののために秋葉原に聖地巡礼する必要はなくなったし、リア充はファミレスに集まる必要が無くなった。


格ゲーも「○○のゲーセンにはヤバイ奴らがいるぞ」という時代でもなくなったし、ゲーセン=ヤンキー高校生がたむろしている怖い場所だという時代でもなくなった。小学生ながらに「ゲーセンこええええ・・・・」と思ってた時代の方が華やかで、今はむしろオタクしかいなくなってる。

もう今の小学校で「夏休みにゲームセンターいってはいけません」ていう夏休みの過ごし方みたいなプリントが配られることもないんだろうなぁと思うし、秘密基地作る子供減ったのと同じようにそういう危ないことする小学生自体が絶滅危惧種になっている。

モンスターペアレントみたいな世代が親になってから、教員だけでなく子供本人も親という規則にがんじがらめにされてしまっている。そしてそれを親にもなれないような悲しい独身男性の自分がこうやってネットでカタカタと批判するのが日本の現実だ。


いろんな華やかな文化や空間がネットによって淘汰され駆逐され、そして均質化されていく時代に僕らは生きている。

オンライン対戦で勝つために全員が同じ装備にするのもその「均質化」の最たる例だ。


ただそのガチ化から解放される空間が実は現実、つまりリアルなのである。

上述のモンハンだってオンライン対戦に行けばガチな装備で真面目にやらないと怒られるが、リアルな友人同士で「何その装備できてんだよーw」とワイワイやれば気軽で面白いだろう。

ポケモンだってポケモンセンターで「ちょっと対戦しましょうよ」と対戦すれば知らない人なのに話が盛り上がって結構面白かったりする。

ゲームタイトルにかかわらず強いキャラクターやチーム、武器を使ってくる子供相手に弱いキャラクターでどこまで対抗できるかというのもやってみると意外と面白い。


スマブラやウイニングイレブンがワチャワチャやるようなパーティゲーの代名詞だった時代も知人同士で集まれば今も再現可能だ。

それがなかなかできない時代だからこそみんな苦労しているのかもしれないし、そもそもそういったリア充や友達が多いタイプの社交的な人はゲームではなくBBQやフットサルをしているだろう。

地域のおじさんが集まってジャズバンドや合唱団を結成して、実はそのあとの居酒屋めぐりが本当の目的ですみたいなのも「人生の楽園」や「新日本風土記」みたいな番組で見かける光景だ。

結局PS4やゲーミングPCの画面に一人向き合うしかない寂しい成人男性は心が荒みゲームに熱中するしかないのである。そして自分もその一人だというところまで皮肉な現実だ。


ゲームでいえば将棋や麻雀は極端にアナログの空間とオンラインの空間の文化が分かれている。

ネットの将棋や麻雀の対戦サイトは無数に存在するし、同時に街中の将棋倶楽部や青空将棋のようなものも存在する。

むしろ対戦相手をローカルで集めることの走りが将棋教室や麻雀喫茶のような存在だといえる。それらも最近はオンライン対戦が普及して減少しつつあるようだが、アナログ空間ならではの味わいが愛されて紙の本がなくならないように現在も文化として存続している。


寂れた将棋道場にいるすげぇ強い爺さんに立ち向かうために真剣に勉強して勝てるようになるのはきっと楽しいだろう。漫画に出てくるような老将を倒すような修行と似た感覚だ。たとえそれが実際はネット将棋に行けばそこまですごいレーティングにならないレベルの人であっても、アナログやリアルならばネットでデジタルに表示される上級者よりも強敵に見える。

これは前述の「オフラインゲームのラスボス倒してた頃の方が楽しい理論」であり、オンライン対戦の上級者よりも実際はこういう相手と戦っていたころの方が楽しみはあったのかもしれない。

ポケモンだってその学校で一番強い奴が凄い憧れの人に見えてた時代が幸せだったのだ。100レベ6体そろえてるだけですげぇ奴に見えた時代でよかったんだよなぁ、とこれまた懐古厨である。


大学生が麻雀クラブや雀荘に集まって深夜まで徹マン(=朝まで麻雀すること)してた華やかなころの文化って情緒あっていいよなぁとも思う、何よりかっこいいし雰囲気がいい。

欧米にはチェスをするカフェもあるがそういう雰囲気もいいし、日本には将棋バーのような場所があってもはや酔いながら将棋をして、その対極に意味があるのかも謎めいているがこれまた楽しそうだ。


しょぼい装備で対戦しても、酔いながら将棋しても「その場が勝ち負け関係なしに面白ければええやろ」という寛容さがあるのがリアルであり、逆に数字に支配されつくしてガツガツして息苦しくなっているのがネットだ。


結局「オンライン対戦疲れ」を引き起こした人が行きつく先はリアルコミュニティでワイワイやれるような場所なのかもしれない。今のオンライン対戦にはもちろそれなりの楽しさもあるし自分も楽しんでいる。

しかし本当に楽しんでいたころの対戦というのは今思えばローカルコミュニティでリアルにやっていたものが多いことに気付く。いくらネットが便利になろうが温かみや人の温もりまでは再現できないのかもしれない。

面白いとおもたら銭投げてけや