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パリオリンピック2024開会式に、オタク的視線をガチっと重ねたときに、見えてきたものと聞こえてきたもの

パリオリンピック2024の246分にもわたる開会式をNHK +で観ました。
「レ・ミゼラブル」「オペラ座の怪人」「ベルサイユのばら」「1789」「ムーラン・ルージュ」などであらかじめ深く耕されているわたしの心にとても強い印象をもたらしたものですから、熱の冷めないうちに感想を書いてみます。
わたしの記憶の玉手箱の中に特別に大切にしまっておきたい感想です。


1. 開会式から連想はひろがる

 フランス革命が勝ち取ったこと

オリンピック開会式からわたしが感じ取ったメッセージは、こんなことです。

フランスで、我らがいかにして「リベルテ」「エガリテ」「フラテルニテ」を獲得したかを見よ。
現代における「ソロリテ」獲得の過程とその普遍的価値を共有しよう。
世界は多様性を持ちながらも協調していくべきなのだ。
これらの強い主張は、歴史の舞台だったパリの街に、世界から集った競技者がいたからこそ、強く響いていました。

(リベルテ=自由、エガリテ=平等、フラテルニテ=友愛)
(ソロリテは“女性たちの間の連帯”と訳されていました)

フランス革命に関しては、普段の嗜好の面からついつい貴族側の立場になりがちなわたしなのですが、ここでは優雅、鷹揚、豊潤、絢爛、贅沢などの大好きな世界観をいったん措きます。
絶対王政が富を著しく偏在させたこと、個人を抑圧したことは間違いのないことです。それを撃ち破る革命があったからこそ世の中に「人権」という概念が生まれ、その結果として今の社会があり、自分自身の暮らしがある、という歴史観を大前提として語らなければなりません。
ジダンが走り出してショーが本格的に始まったとき、街はいったん破壊と混乱に陥っていましたが、あれは、表面的に安穏な秩序はいったん壊してみるのだよ、という意味なのでしょう。

ショーの冒頭に出てきたテーマ、ÇA IRA (サイラ)は、どうにでもなるさ、という意味です。
「ア・サイラ」というタイトルの歌は、フランスで最も有名で重要な革命歌のひとつで、フレンチミュージカル「1789」の主題歌「サイラ・モナムール」の元ネタです。日本語の歌詞は、♪ サイラ・モナムール。きっとうまくいく ♪

 愛と喜びのダンス

ショーはオーステルリッツ橋から始まって下流へと進んでいきましたが、途中の170分くらいをぶっちぎりますね。
終点イエナ橋の手前、ドゥビリ橋の上で、LGBTQsのファッションショーみたいなシーンがありました。突拍子もなくとんがった人たちの中で、ボネを被ったロングドレスの女性とサンキュロットの男性が2人で楽しそうに踊っていたのに気づきました。
あのダンスこそ、革命が獲得したリベルテ・エガリテ・フラテルニテの象徴だったのだと思うのです。
18世紀の農民のカップルが、重税からも抑圧からも飢饉からも逃れて、愛を感じながら、自由に踊っていた姿だと思うのです。

愛と喜びのダンス

ドゥビリ橋とセーヌ川面の特設ステージでさまざまな属性の人たちが喜びにあふれて踊りまくっていた多様性の中の統合のシーンの直後にショーは暗転。「イマジン」のシーンで、現状の現実世界の混乱に引き戻されました。

そして、馬に乗った性別不詳の騎士がセーヌ川を猛スピードで疾駆してきます。
クーベルタン男爵のオリンピック理念(当時としては画期的すぎる理念には今の目で見ると落ちやモレもあるんだけど、それは前半でフォロー済み)その理念の象徴のような銀色の馬と騎士が、統合の場であるトロカデロ広場へと走っていく。
そのシーンで、あの曲が始まります。

♪ ランパパパンパパパン

革命のドラムのランパパの響きに合わせて、参加国の旗がトロカデロ広場に進む。
世界が多様性を持ち、統合されている、その象徴としてのオリンピックへと。

♪ ランパパパンパパパン パパパパパ
♪ パンパパパンパパパン パパパパパ

このランパパは、ミュージカル「1789」で市民たちと革命家たちが歌う「声なき言葉(LES MOTS QUE L’ON NE DIT PAS)」という曲にも使われていたフレーズです。これもおそらくフランス人にとっては、耳に、魂に馴染みまくっている革命歌だと思われます。

2. セーヌ川は、あの時も今も、パリを流れる

 革命はパリで火を噴いた

今更ながらですが、大会のマスコットキャラクターはフリジア帽です。このことからも、パリオリンピックのコンセプトに「革命」が色濃く織り込まれていることがわかります。ドラクロワが描いた「民衆を率いる自由の女神」の絵もショーに再現されていましたが、あの自由の女神、フランス共和国を擬人化したマリアンヌが被っている小さな帽子が、フリジア帽です。小さな三角帽は、革命期において、権威や身分の差を視覚的に覆すシンボルになる大切なアイテムだったといいます。

理想に燃えて高揚した市民たちがフリジア帽に三色徽章をつけて街に繰り出した時の歓声が聞こえるようです。でも、革命は過激化し、コントロール不能になり、激流となってアンシャンレジームを押し流していきました。
コンシェルジュリでは、ギロチンで切り落とされた首を抱えたロココの婦人の姿、血しぶきの噴き散る中での「ア・サイラ」のヘビメタ演奏、などのショッキングな演出がありました。
思わず目を見張ったあのシーンは、革命で自分たちが何をしてきてしまったのかということから目を逸らさない、黒歴史から逃げない、という基本的な姿勢を示していたのだと理解しています。

後半の「イマジン」のボート(筏?)が炎に包まれていたとき、「慚愧」の思いも含まれているのだとも感じました。

 リベルテ・エガリテ・フラテルニテ

フランスで、およそ230年前に、市民たちの手によって、リベルテ・エガリテ・フラテルニテが勝ち取られました。けれども、そこに至るまでには破壊と狼藉があり、おびただしい血が(無駄に)流されています。打ち立てられた共和国も平穏ではなく、レ・ミゼラブルに描かれたような社会的格差などの苦闘も続き、植民地の問題もあり、20世紀の大きな戦争も体験しています。
歴史は連続して流れていて、今現在の世界へと続いています。

開会式の日、世界から集まってきた選手たちは、祖国を背負って、あるいは祖国を失った状態で、あの場に登場していました。歴史の川(を象徴するセーヌ川)の流れの上に、これから命を燃やす戦いの場に立つために現れていました。
競技においてフェアプレイ精神を発揮して戦う、その目指すところは、スポーツにおける勝利です。
それは、リベルテ・エガリテ・フラテルニテの象徴的な具現化でもあります。
地上に広がる世界の一員としてこの世に現れた一人ひとりの個人。誰もが皆、幸せに生きたくて、いま、この同じ時間に、地球の上でそれぞれの生活を営んでいる。そうした個人が集まって、幸せに暮らすために作ったのが、国家。

敵同士になった国は双方が参加していましたが、国家としての開会式参加を認められなかった国がありました。このことについては、いまその是非を問うよりも「国」が地上で果たすべき役割について考えるヒントにしたいと思っています。

 モンゴルフィエの気球

聖火はイエナ橋からセーヌ川を遡り、チュイルリー公園に上陸します。聖火台はモンゴルフィエの気球のオマージュです。モンゴルフィエの気球は、図らずも革命思想の基盤を作ってしまった発明品だと言われています。

18世紀のチュイルリー公園では気球に乗る遊びが流行しました。人々は気球に乗って上空から俯瞰して下界を見下ろすと、その景色に驚きました。
王様も貴族も坊さんもブルジョワも兵隊も貧民も、みんなおんなじくらいのちいちゃな存在じゃありませんか。
その事実が、直感的に、視覚的に、腑に落ちてしまったのです。こうして革命思想が枯野の火のように広まっていく素地が作られたのだといいます。

「歴史」に重ねられた「オリンピックの開会式」。この構造に気づいたとき、わたしたちはモンゴルフィエの気球に乗ったかのように「世界」を「地球」を俯瞰する視点を与えられたのだ、ということにも気がつきました。歴史と現在を重ねることで、今この世界がはらんでいる危うさに警鐘を鳴らしている、その音が聞こえる。

リベルテ・エガリテ・フラテルニテを獲得するために流した血、混乱、破壊、腐敗や不正までも思い出せ、という、言葉にならないメッセージも聞こえてきます。
なぜその声が聞こえてくるかというならば、その開会式が行われている街は、たゆたえども沈まない、誇り高きパリなのですから。

地上のすべての登場人物は、どのようにしてこの世に現れたのか。
どんな責任を持ちながら、この世を生きていくのか。
地上に生きる誰もが、愛と喜びのダンスを踊れる日は来るのか。

あの開会式のショーは、その問いに対する理想高き回答のひとつだったのではないかと思うのです。

3. 目を凝らして見る、耳を澄ませて聞く

 声なき言葉

開会式のショーの通奏低音として言葉にならずに響いている声はこう言っている。

「その事実から目を逸らさないってことは、世界にいま起こっている混乱からも、目を逸らさないってことなのよ」

「いままさに、戦線を進めているソロリテの獲得のための苦闘からも、逃げはしないってことでもあるのよ」

 獲得したものの尊い価値

大きな国からも、小さな国からも、長い歴史のある国からも、できたばかりの国からも、選手団が集まってきていました。

日本は、欧米諸国からは少し遅れて「世界」に参加した国です。
「遅れ」を取り戻し、世界におけるよき立ち位置を確保するために、あれこれとやってきた。歴史の授業で習ったことも、学校では習わなかったことも、あります。どんなふうに無我夢中で努力して成果を上げてきたか、どんなふうに手を汚しながら誰かを踏みつけにしながら進んできたのか、目を逸らさずにいたいものです。
世界の、責任ある登場人物として、本当の強さを実現するには、歴史から目を逸らさずにいなければなりません。
歴史から多くを学びとり、リベルテ・エガリテ・フラテルニテとは痛みの中から勝ち取った尊いものなのだという真価を忘れずにいること、それが欠かせないことなのだ、と、強く思いました。

日本だけでなく、どの国も、そうです。視線を世界に広げなければなりません。

歴史を知り、歴史から目を逸らさないことから、望ましい未来が生まれるのです。

 愛の讃歌

望ましい未来とは、誰もがそれぞれのリベルテ・エガリテ・フラテルニテを尊重し合える未来のことです。

好きな人と、愛と喜びに満ちてダンスを踊れる未来のことです。
そして、ソロリテが普通に確立している未来のことです。

フランス国立図書館で愛の文学を謳い、ルーブル美術館で愛の美を謳い、それらを伏線とした上での、セリーヌ・ディオンの「愛の讃歌」。これはもう、これ以外の選曲はありえない、ズバリの一曲でした。
破壊、流血、混乱をおさめるのは、ただ、愛だけなのです。

最後には、愛しか勝たないのです。愛が、勝つべきなのです。

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