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なぜ老と死は苦なのか

はじめに

人は老いを嫌う。たとえば日本文学にも

花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身よにふる ながめせしまに (小野小町)

住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん (徒然草第7段)

などの有名な一節があるし、題名は忘れたが、高校時代に「隠居した人が若い人の話についていけず煙たがられ、嘆く」というような話を古典の時間に習った記憶がある (詳細を知っている人がいたら教えてください)。


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老いの分析

老いとは何か。

老いは多くの仕方で語られる。ただ生きている年数が長いだけでおじさんおばさん扱いされることもある。あるいは老熟として肯定的な老いもあるだろう。だが、最も一般的には、経年による身体や能力の衰えを指す。たとえば、10歳から20歳へは成長であるが、20歳から60歳へは老化であるというように。

つまり、単に生きる時間が伸びて年齢を重ねるだけでは老いにはならない。もし人が20歳のときに不老不死の能力を手に入れたならば、その人が40歳になっても60歳になっても老いたことにはならない。

なぜ老いは苦なのか。それは、老いは単なる年齢増大ではなく、劣化を伴う年齢増大だからだ。ならば、老いの苦の本質は劣化であって、年齢増大は特に関係がない。しばしば「ティーンエイジャー」や「アラフォー」など、年齢で集団を分類する仕方を聞くが、年齢が何歳であるかと身体の健康状態が一致するのは偶然的に真であるに過ぎない。

つまり、老いが苦である理由の第1は、身体の劣化、すなわち卓越性 (徳) の減少にある。このような問題を扱うのが徳倫理学だろう。

老も死も論理的には必然でない

なぜ人は老いを苦であると感じるのか。それは、老いは論理的必然性を持っていないからだ。たとえば20年に40年を足せば60年になることは必然的に真だが、20歳が60歳になれば身体が劣化することは偶然的に真であるに過ぎない。論理的理性の次元では必然性を証明できないのに、物質的感性の次元では必然性が迫ってくる。この齟齬によって、感性的であると同時に悟性的である人間は苦しむ。

なぜ死ぬのが嫌なのかも同様だ。人間が死ぬことはたんなる偶然的事実に過ぎない。「すべての人間はいつか死ぬ。ソクラテスは人間である。ゆえに、ソクラテスはいつか死ぬ」というのは論理学史上最も有名な三段論法であるが、人間がいつか死ぬことは論理に内在するアプリオリに分析的な真ではまったくない。もちろん人間の内包に「いつか死ぬこと」をあらかじめ含めるならば話は別であるが、別に人間が死ななくなったって急に神 (deity) や怪物にはならないだろう。

『法言』に

「生ある者は必ず死あり。始めある者は必ず終わりあるは、自然の道なり」(諸橋轍次『中国古典名言事典』講談社, 1979年, p. 697)

とあるらしいが、生ある者が必ず死あるとは限らないだろう。

では、始まりがあるならば必ず終わりがあるのだろうか? Immanuel Kantの『純粋理性批判』第1アンチノミーの定立のところ (A426-8/B454-6) では、我々は無限大を思考できず、完結された総合か単位を繰り返しそれ自身に付加すること以外のいかなる様式でも思考しえないことが論じられている (原佑訳『純粋理性批判・中』平凡社, 2005年, pp. 215-7) 。

いや、Kantを前提しても不老不死は論理的に可能である。定立側では無限の時間が反駁されているから、「始まりがあるならば必ず終わりがある」ことは正しいように見えるかもしれない。けれども、「単位を繰り返しそれ自身に付加する」ことはできると書いてある。

単位を繰り返しそれ自身に付加すること。これこそ不老不死に他ならない。というのも、「不老」という言葉が「身体の劣化だけではなく年齢の増大も起こらない」ということを指すならば、時間が止まったことになるが、しかし時間停止は人間が感性の形式を伴って生きている限り不合理であるから。たとえば「5分前に時間が一度止まり、そしてまた動いて5分後に今になった」と仮定せよ。仮定できまい。「時間の逆行」も同様だ。時間そのものが止まったり逆行したりすることは思考不可能だから。いわば「この世界をYouTubeの画面の中に入れてスクロールバーを操作する」ような仕方でしか思考できないが、それは「この世界の外側」という「別の世界」の時間の流れの中にいると仮定しているから思考できるのだ。

本題に戻ると、前段落より、「不老不死」における「不老」は「年齢は増加するが身体は劣化しない」と解釈するのが適切だ。ゆえに、年齢という単位を繰り返しそれ自身に付加することは無限にできる。しかも、人間の一生には「誕生」や「最初の記憶」という始点は必ずあるから — もし君にないならば今ここを始点にできる — 不老不死を想定する上で無限に過ぎ去った過去という問題を考える必要はない。

まとめると、老や死が苦である理由は、少なくともその理由の1つとしては、論理的には いともたやすく 不老不死が可能なのに、この自然においてはなぜかままならない老や死があるという理不尽さに他ならない。論理的理性が処理できないという意味で文字通り「理不尽」だ。

消滅としての死について

もちろん死を「消滅」ととらえるならば、それをこわいと思っても不思議ではない。実際、持続可能な開発目標 (SDGs) が流行語のように唱道されているが、死がある限り持続可能な開発なんて不可能だろう。しかし、肉体の死が意識の完全な消滅を意味するということは — 死をそのように定義すれば話は別だとしても — やはりただのdoxaだろう。

なぜ肉体の死が精神の死と同等にとらえる味方が一般的なのか。第1の仮説は「他者」とは「振る舞いの集合」であり、「他者の死」とは「他者が呼吸・身体維持・コミュニケーションなどの振る舞いを不可逆的に停止すること」ことを意味するからだ、というものだ。

第2の仮説は、生まれる前の、すなわち自己の身体が生成する以前の記憶がないので、死んだ後の、すなわち自己の身体が解体した以後も記憶・視点が消滅するだろう、という類比だ。こちらの方が納得感があるが、先に見たとおり、身体と意識の対応も偶然的に真に過ぎないので、だからこそ理性は苦悩するのだろう。というのも、この世は諸行無常で一切皆苦であるとしても、あるいは際限のない煩悩が苦しく、悟らない限り人間の欲望は増大し続けるとしても、人は「丸い四角が欲しい」とか「内角の和が180度ではない平面上の三角形が欲しい」という欲望を抱くことはあるだろうか。あくまで個人の感想に過ぎないが、私はないと思う。この場合は丸い四角や内角の和が180度ではない平面上の三角形を手に入れることは必然的に不可能であることが明白なので、理性は苦悩しないからだ。

もちろん私も意識の消滅は嫌だが、これもたんに意識がいつまでも消滅しないことが論理上は明白に可能であることに由来する嫌悪感だ。ただし、死に意識の不可逆的消滅を結びつけるのは神の死んだ現代だからこそ常識的になった発想で、地獄や冥界や天国や楽園を信じる諸社会は歴史上枚挙にいとまがないわけで、別にそんな普遍的な課題でもないだろう (たとえば2022年の超大国ではキリスト教原理主義に基づいて人工妊娠中絶が違憲だったり進化論を教えなかったりするわけで、さらには最貧国でもイスラーム原理主義に基づいてテロとか起こってるわけで、神なんてちっとも死んでやいない)。

永遠の生

人間は永遠の生を前提としている。まず、事物の変化をとらえるためには変化しないロゴスが求められる。「皿が割れた」ということを認識するためには、割れる前の皿と割れた後の破片の同一性を前提する必要がある。割れたときに割れる前の皿の知識を保っているからこそ割れたことが理解できる。

社会においても同様である。明日世界が終わるならば、資本主義経済どころか社会秩序全体が今日崩壊するはずである。というのも、たとえば貸付金の回収期日が明日であり明日世界が終わるならば数字が書かれた紙切れなどに価値はないし、明日世界が終わるならば牢屋も意味をなさず、死刑も余命に大した差を生まないから。そして、あさって世界が終わるならば、明日社会は崩壊するのだから、明日社会が崩壊ことになり、ならば今日の借金や犯罪も意味をなさず、今日社会が崩壊する。以下同様。ゆえに社会は永遠的持続可能性を前提する。

人間が永遠に生きることは論理的に可能であるし、日常生活の中で永遠性を前提としているし、私ももしもできるのなら永遠に生きたいものだ (反実仮想)。ただし、永遠ならば善であるとは限らない。たとえば生老病死からなる四苦のうち「病」はどう考えても儚い方がいい。

永遠の花

ただ永遠に生きるのではなく、善く永遠に生きることが必要である。

善く生きるために、若く美しい肉体を保つことは必要であろうか。老いた体は醜い。若い体は細やかで艶やかで愛らしい。では、なぜ美しくある必要があるのか。それは性愛のためであろう。美しく体を重ねるために、恋人だけではなく私も美しくなりたいと欲する。

問い。もし君が幽体離脱したなら、君が元々「入っていた」肉体が美しくなることを欲するだろうか。ここにおいて幽体離脱とは、通常の視点の位置感覚、私はこの体に属するという感覚を脱して、たとえば元の体の上方とか後方から視界が開けている感覚である。実際に精神医学などでは症状としてあるらしいし、科学的にはおそらく脳が網膜からの情報を再構成しているのだろうが、ここでは科学的なことは保留してあくまで思考実験として扱う。

さて、離脱前の体を離脱後も傀儡のように動かせるならば、美しくなりたいと、少なくとも私は願う。なぜか? それは愛する人に美しいものを見てもらいたいからだろう。つまり、己の肉体の美しさを求める感情は、愛する人を喜ばせたいという利他的感情である。美しい花束を与えるのと同様に、美しいこの肉体を与えたいということである。

しかし、恋愛がすべてではない。第1に、すべての人間が恋愛をするというような暗黙の前提はasexualやaromanticの人に対する差別だから。第2に、恋愛は排他的だから。今見てきたように、美しくなりたいという欲望は、相手に美しいものを見せたいという利他心だった。ならば、恋人しか目に入らないバカップル的な利己的空間を脱して、その同じ利他心を共同体全員に向けることができる。

共同体に対して利他心を用いる場合は、肉体の美しさはそれほど役に立たない。むしろ、道徳的な麗しさが求められる。

永遠の人倫

不老不死を望む有徳者は、永遠の人倫を望む。というのも、いつか終わる人倫や永遠の悪徳を望む者は有徳ではないから。

また、不老不死を望むならば有徳にならなくてはならない。老いとは身体の劣化を伴う年齢増大を意味し、身体の劣化は卓越性 (徳) の減少であったが、ならば、不老を望む人は卓越性の維持と増大を求めている。死が卓越性の消滅であるならば、不死を望む人は卓越性の持続を求めている。

いかにして卓越性から倫理を導出できるのか。

人間の卓越性とは何か。たとえばトンカチの卓越性は釘を打ちやすいことだし、家の卓越性は人間や財産を風雨から守ることだ。トンカチの本質とは「釘を打つためのもの」であり家の本質とはAristotelēsによれば「人間や財産を風雨から守るためのもの」であるとすれば、本質において優れていることが卓越性だ。

もちろんトンカチや家は人工物であり道具である特殊事例だ。「H2Oであるという本質において優れている水がある」という表現はおかしいだろう。『ニコマコス倫理学』ではエルゴン (機能) の発揮が卓越性だと述べられているが、それではウイルスの卓越性はウイルスとして繁殖に優れていることなのだろうか。それとも弱毒ワクチンのように人間にとって有益であることなのだろうか。

倫理学が人間的な善を対象とするものならば、倫理学に扱える人間的な卓越性とは、人間にとっての卓越性のことだ。ならば「君の存在は何の役に立つのか」と聞かれたときに「私の存在は君の役に立つ」と答えることが道徳だ。

以上より、人間の卓越性とは人間にとっての卓越性でなくてはならないから、卓越性 (徳) から倫理が導出できた。

永遠の命と天の国

ところで、仮に科学の力で不老不死が実現したとして、そもそも何のためにそれを欲するのか。もちろん、友達や家族と永遠に仲良く暮らせるならば幸せだろう。

しかし、死者はどうなるのか。愛する人と死別した人は、永遠に生きて幸福になれるのだろうか。曽祖父母の曽祖父母の曽祖父母がまだ生きている人が誰かいるだろうか。先生の先生の先生……や先輩の先輩の先輩……とたどっていけば誰かはもう死んでいる。小さいころに育ててくれた親戚や近所の人、夭逝した友だち、このような人たちを除外した幸福なんて意味があるのだろうか。

愛する人を失ったら、生きていることに価値はない。たとえ生きている私と友だちと家族が不老不死になっても価値はない。けれども他方で、死が — たとえば意識の消滅など — 他者との永遠の別れを意味するなら、後を追って死ぬことにも価値はない。

唯一価値があるのは、すでに亡くなった愛する人が復活し、名もなき義人の魂も救われ、みなで永遠に生きることだ。

ゆえに、永遠の命を求める者は、神の国も求めなくてはならない。

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