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オデュッセウスを追いかけて(5)番外編

 神話の世界に憧れて旅したギリシャ。2004年、英雄オデュッセウスの故郷とされるイタキ島を訪ねた後で、彼の物語を小説化しようと試みたものの、途中で挫折してしまいました…。
 しかし、トロイア戦争にまつわるエピソードをまとめていたので、オデュッセウスやトロイア戦争を知るきっかけになればと思い一部を再構成して公開します。

オリーブの木の下で (小説)

 太陽は、青い空の高みから、強い光を大地に浴びせていた。じりじりと砂が焼ける音まで聞こえるようだ。
 暗がりの中で、男たちは息を潜め、じっとその時を待っていた。太陽神アポロンが天を駆け去り、夜の帷(とばり)が辺りを包むその時を。
 狭い空間には、息苦しいほどの熱気が立ち込め、彼らの肌には、大粒の汗が浮き出ていた。革袋の水筒の水は、ぬるま湯に変わっている。景気づけにと葡萄酒を口に含む者もいる。生ぬるい酒を。
 過酷な状況の中でも、誰も弱音を吐くものはない。選び抜かれた精鋭たちばかりだ。
「オデュッセウス」
 声を潜めて、呼びかける。いや、声には出していなかった。心の中で彼の名を呼んでいた。その精悍な横顔を見つめて。彼がいたからこそ、今この場所にいる。彼がいたからこそ、あの大海原を渡った。
 トロイの大地に、強い日差しが降り注ぐ。多くの勇者の赤い血を吸い込み、彼らの命を呑み込んだ大地に。
 目を閉じると、まぶたの裏に懐かしい風景が広がる。岩根多き小島、小さく、しかし、美しい、懐かしいふるさと。彼と出会った、イタケ島の風景が。

 イタケは、ギリシア本土の西、イオニア海に浮かぶ、小さな小さな島だ。岩がちで険しく、畑を拓くにも苦労する土地だ。しかし、決して豊かとはいえなくとも、人々は島を愛し、つつましく日々を送っていた。
 荒れた土地にも、力強く根を張るオリーブの木が、茶色い岩肌に緑の影を作り、強い海風にその葉を揺する。崖の上から覗き込むと、水底の石までも見通せるほど、澄み切った海が見える。
 そんな、オリーブの木が風に揺れる丘の上だった。
 オリーブの木の下で、少女は熱心に、草花を編んでいた。花冠を作り、母に見せようと。一緒に遊んでいた友達とも別れ、夕暮れが訪れる前に、と焦る気持ちで小さな手を動かして。
 ざわり、と草むらが揺れ、振り返った彼女は目をみはった。鋭い牙をむき出した猟犬だった。体が石になったように動かない。声も出せずに彼女は身をすくめていた。
 そこへ、口笛が響き、猟犬はさっと元の道へ駆け戻り、口笛の主を迎えに走った。さわさわと風が草を揺らし、その間から一人の少年が姿を現した。
 すぐに彼は、少女の姿を見つけた。軽やかに近づき、少女の顔を覗き込む。
「こんな所に人がいるとは思わなかった。驚かせて悪かったね。でも、こいつは賢い犬だから、人を襲ったりはしない、心配いらないよ」
 そう言って、彼は少女に手を差し伸べた。
「もうすぐ日が暮れる。ふもとまで送ってあげよう。きみ、名前は?」
「……アレクサンドラ」
 少女はうつむいて答えた。
「ぼくはオデュッセウス」
 アレクサンドラは、驚いて顔を上げた。すらりとした手足をした少年は、きらきらとよく光る瞳で彼女を見つめ返した。
「王様の…」
 王の一人息子、この島の王子の名がオデュッセウスだ。彼は軽く肩をすくめるようにして、先に立って歩き出した。
「さあ行こう、アレクサンドラ。暗くなると山道はあぶない」
「でも…」
 アレクサンドラは、編みかけの花冠に目を落とした。それに気づき、オデュッセウスは言った。
「よし、じゃあ、手伝ってあげる、大急ぎで編み上げるんだ。きみはこっちを、ぼくはこっちから編む」
 それぞれの端から編み始めると、あっという間に花冠は大きくなり、彼女の母の頭にかぶせるのにちょうどいい大きさになった。
「できた!」
 うれしくて、アレクサンドラは花冠を胸に抱くようにして、オデュッセウスの顔を見上げた。目があって、なぜか彼女は気恥ずかしさを覚え、すぐに目をそらした。
 オデュッセウスは立ち上がり、少女の小さな手をとって、立たせた。
「さあ、本当に山を下りないと。アポロンが金の馬車で走り去ってしまうよ」
 少年は、すいと手を伸ばし、オリーブの枝を折り取った。その枝を少女に差し出す。
「オリーブの枝はお守りだ。オリーブは女神アテナの木だからね」
 それが、出会いだった。海からの風に揺れる、オリーブの木の下で。

 ギリシアの大船団が、このトロイの地まで、大海原を渡ってきたのも、元はといえば、一組の男女の若さゆえの無謀な恋が原因だった。ギリシア随一の屈強な軍団を誇るスパルタ王・メネラーオスの妻、世界一の美女との呼び声も高い、ヘレネーと、トロイの王子、パリス。スパルタを訪れたパリスと美しい王妃は、ふとしたことで顔を合わせ、二人はたちまち恋に落ちた。パリスはヘレネーの手を取り、トロイへ帰る船へ彼女を導いた。自慢の妻を奪い去られたメネラーオスは怒りに震え、兄のミケネー王・アガメムノンへこの理不尽な仕打ちを訴えた。何ものにも代えがたい侮辱だと。
 すぐに、ギリシア全土に使者が走った。メネラーオスへの侮辱は兄にとっても侮辱、国への侮辱、ひいてはギリシアに加えられた侮辱にも等しい。
 呼び寄せられた勇者たちは、船団を組み、トロイの地を目指す旅についた。
 しかし、この恋には、若い二人の思惑を超えた神々の力が働いていたのだ。海の女神・テティスの結婚を祝う宴の席だった。神々やニンフ(妖精のようもの)たちが集い、竪琴の音が響く華やかな席に、突如、不穏な気配が起こった。宴の輪の中へ、黄金に輝く林檎の実が投げ入れられたのだ。
 「もっとも美しいものへ」
 その言葉とともに投げ入れられた林檎には、神をもひきつけずにはおかない妖しい魅力があった。投げ入れたのは、争いの女神エリス。宴の席に呼ばれなかったことに怒った女神は、争いの種を祝いの席に撒いたのだった。
 その林檎に魅入られたのは、オリュンポスに集う神々の中でも名高い女神ばかり。大神ゼウスの妻ヘラ、ゼウスの娘で知恵と戦いの女神アテナ、そして、愛と美の女神アフロディーテ。
 黄金の林檎の魔力に魅入られた女神たちは、林檎を奪い合い、決着がつかない。そこで、女神たちは羊飼いの青年パリスに、林檎の持ち主を決めさせることにした。パリスは羊飼いに身をやつしてはいたが、元はトロイの王子。その気品ある美貌は、みすぼらしい姿をしていても隠しようがなかった。
 
 パリスは紛うことなきトロイの王子だったが、幼いころから王宮を離れ、羊飼いの子として育てられた。それは、彼が生まれた時、「トロイを滅ぼす者」という予言があったからだった。パリスが羊の群れをいつものように草原へ連れてきたときのこと。昼間だというのに、辺りが突然暗くなり、一陣の風が起こったかと思うと、この世のものとは思えぬほど、気高く美しい3人の女性が現れた。
 きっと、これは人間ではない、女神に違いない……。
 そう思い、地面に膝をつき、頭をたれた彼の頭上に、涼やかで、それでいて厳かな声が響いた。
「トロイの王、名高きプリアモスの息子、パリスよ。私たちは、お前にひとつ、果たしてもらいたいことがあって訪ねてきたのだ。顔を上げなさい」
 パリスは顔を上げたが、眩しさに目を開くことができなかった。すると、女神の指先が彼の瞼にふれ、ようやく彼は目を開くことができた。世にも美しい女神たちは、彼の前に微笑して立っていた。
 「これを取りなさい」
 差し出されたのは黄金に輝く林檎だった。
 「この林檎は、『もっとも美しい者』へ与えられるもの。誰がその言葉にふさわしいか、お前に決めてもらいたいのです」
 パリスは震えながら首を振った。
 「そんな恐れ多いことを。女神さまの中から選ぶことなど、愚かな人間の身である私には無理でございます」
 「パリス。お前が愚か者などでないことは、神の身である私たちには分かっています。さあ、選ぶのです。お前が私を選ぶのなら、私は権力と名誉、栄光を与えましょう」
 そう告げたのは、大神ゼウスの妻、ヘラだった。
 彼の前に歩を進め、涼やかな声で告げたのは、ゼウスの娘、知恵の女神アテナ。
「お前が私を選ぶならば、何者にも負けない優れた知恵を授けましょう」
 身をすくめる彼の顎を、しなやかな指がとらえた。美と愛の女神アフロディーテーは、彼の顎を指で持ち上げ、その瞳を覗き込み、にこやかに微笑んだ。
 「私がお前にあげるのは、そんなつまらないものではない。とっておきのすばらしい贈りもの。この世で一番の美女をおまえに与えよう」
 女神の美しい笑顔に、パリスは射すくめられたように身動きできなくなった。女神はその指を離し、身を起こすと、自信たっぷりに笑みを浮かべた。
「これを…」
 ようやく体を動かし、パリスはおずおずと、金色に輝く林檎を差し出した。
 「よく分かっていること」
 晴れやかな笑みを浮かべて、アフロディーテーは林檎を受け取った。残る二人の女神は、憤然と顔をそらし、姿を消した。アフロディーテーは、パリスの震える肩に手を置き、甘やかに囁いた。
 「お前の望みのものを授けましょう。この世で一番の美女は、大神ゼウスと限りある命を持つ人間の間に生まれた女。その名はヘレネー。スパルタ王の妃」
 パリスは身を震わせながら、女神の顔を見上げた。
 「王の妃……?」
 女神は微笑し、彼を見下ろし告げた。
 「心配はいりません。彼女もお前に惹かれるのです。恋する心を止めることはできない。たとえ神であっても。パリス、お前は世界一の美女にふさわしい男。優れた頭脳、恵まれた肉体を持ち、何より美しいものを見抜く力があるのだから。さあ、もう羊飼いの姿はおやめ。お前はトロイの王・プリアモスの息子。もうすぐ、王の使いが迎えに来る。山を下り、お前がいるべき場所へ帰るのです。そして、ギリシアへ向けて船を出しなさい。私がついています」
 パリスは驚きのあまり、言葉も出なかった。乾いた唇を開き、ようやく言葉を発しようとした時、何の前触れもなく、女神の姿は消えてしまった。呆然とした彼の目に、山を登ってくる男たちの姿が見えた。彼らこそが、トロイ王からの使者だった。
 
 実の父、トロイの王・プリアモスは、幼いころに行方知れずとなっていた末の息子・パリスを、探し続けていた。ようやく見つけ出した息子は、幼いころの面影を残しながらも立派な青年となって現れた。プリアモスは自ら王宮の門まで出向き、息子を出迎えた。パリスの兄弟姉妹たちも王宮で彼を待っていた。パリスは戸惑いながら、父や兄弟たちに挨拶をした。
 長兄のヘクトールが濃い眉の下の力強い瞳を彼に向け、手を差し伸べ、広間へ迎え入れた。プリアモスは何度も彼を抱擁し、喜びに声を震わせた。
 こうしてパリスはトロイ王家の一員として迎え入れられたのだった。
 青年から金のりんごを受け取った女神は、満足げに微笑むと、約束どおり、彼に船を与え、風を送った。一路、スパルタへと向かう風を。その地に、人の世で一番の美女がいた。彼女の名はヘレネー。大神ゼウスの血をひくとも言われる、女神にも見紛う絶世の美女。
 二人の出会いが、すべての始まりだった。いや、黄金の林檎が宴の席に投げ込まれた時。あるいは、もっと大きなところで、世界が動き始めていたのかもしれない。限りある命を持つ、人間たちの思いも及ばない領域で。
 

*****

 冒頭の部分は、オデュッセウスの策略とされる「トロイの木馬」のエピソード。木馬の中に潜むギリシャ軍の戦士たちの姿です。イタケー島での少年オデュッセウスの姿、トロイア戦争のきっかけとなった黄金の林檎のエピソードを描きました。(未完の文章で恐縮です)

 ブラッド・ピットが英雄アキレスを演じた映画『トロイ』では、ショーン・ビーンがオデュッセウス役を渋く演じています。ギリシャ神話や『オデュッセイア』を知るきっかけになればうれしいです。

 (Text :Shoko, Photo:Mihoko & Shoko ) ©️elia

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