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アトランティスロック大陸 1 1963~67

風の記憶、岩の夢
My United Stars of Atlantis

谷口江里也 著
©️Elia Taniguchi

目次
プロローグ
第1歌 Blowin' in the wind
    風に吹かれて ボブディラン 1963

ビッグバン
第2歌  Please Please Me
    プリーズ・プリーズ・ミー ザ・ビートルズ 1963
第3歌   Time is on my side
    タイム・イズ・オン・マイ・サイド 
    ザ・ローリング・ストーンズ  1964
第4歌   Mr Tambourine Man
    ミスター・タンブリン・マン ザ・バーズ 1965
第5歌    I can't get no satisfaction
    サティスファクション ザ・ローリング・ストーンズ 1965
第6歌    Like a Rolling Stone
    ライク・ア・ローリング・ストーン ボブ・ディラン 1965
第7歌     Yesterday
    イエスタディ ザ・ビートルズ  1965
第8歌  Colors
    カラーズ ドノバン 1965
第9歌     California Dreamin'
    夢のカリフォルニア ママス&パパス 1966
第10歌    Some body to Love
    あなただけを ジェファーソン・エアプレイン 1967


第1歌 Blowin' in the wind 1963
    風に吹かれて  ボブディラン  

1 風に吹かれて **

答えは友よ、風に吹かれて風の中に
答えは、風に吹かれて風の中に……

好きか嫌いかしかなかったポップミュージックの世界にボブ・ディランは、この歌を手始めに、自分自身で考える、という、極めてラジカルな思考の回路を彼の歌を聴く者の頭の中に密かに、あるいはオートマティックにインプットし始めた。
象徴的に言えばこの瞬間を境に、ポップスは単なる音楽というジャンルと、その用途を遥かに超えた次元を求める旅に向かって急激にローリングを始めたのだった。
もちろんこの歌は当時、ベトナム戦争の反戦歌として、その運動のシンボルとしてもてはやされ、ディランもまたこの歌によって、反戦フォークのカリスマにまつりあげられることになる。
しかし歴史的なシンボルの多くがそうであるように、この歌も、そしてディラン自身も、そのようなジャンルや意味づけの枠を遥かに超えたパワーと、表現という行為に関する本質性を、その内に秘めていた。
とりわけこの歌の歌詞は、基本的に全てが疑問形、つまり、問いかけ、の形を取っており、しかもその問いかけは、あまりにもストレートであるために、まるで当たり前のように聞く者の体の中に入り込む。
そしてその答えもまた、見つけようとしさえすれば誰もが手にすることが出来るような平易さを漂わせながら、しかしその実、ふとその問いを一般的なものとしてではなく、また誰かに対してでもなく、自分自身へと向けてみた瞬間、問いは安易に受けとめられる類のものではなく、いったん手にしていたように感じられたその答えも、いつの間にかその根拠を見失っていく。
そして自らに問うという行為が自分にもたらす不思議な力の記憶だけが、この歌を聞く者の体の中のどこか深いところで密かに生き続け始める。

いったいどれだけの路を歩かなければならないのだろう
人が人と呼ばれるまでに……
どれだけの数の砲弾が飛び交わねばならないのだろう
それが二度と発射されなくなるまでに……

このような問いに、はたしてどんな答えがあるだろう。言うまでもなく答えは決して一つではないが、一つではないということにこそ、またかといって、無数にあるというほど漠然としたものではないと思えることにこそ意味がある。
大切なのは問うことであり、そして答えを求めるという行為自体が、自分自身の心の中に新たな何かを生じさせていく。繰り返すが、問うことこそが人を大きくする。彼を遠くまで連れていく。人は何故と問うことによって成長し、問わぬことによって、あるいは同じ答えに固執することによって死ぬ。
生きているということは、細胞が生まれ変わり続けることにも似て、変化し続けるという事であり、そして表現とは、その変化を、ほんの少しでも自分にとってマシと思える方に向けるための行為であるとするならば、問い、こそが表現という人間の最も人間的な行為を、すなわち命そのものをドライブするエンジンに他ならない。

だからディランは今もなお、この歌をステージで歌い続ける。なぜならこの問いは、なにより彼自身への問いでもあるからだ。そして同時に、彼が生き、そして私たちが生きている世界と今への、常に現在進行形の問いでもあるからだ。ディランの歌には問いかける形式のものが多いが、それは彼が本質的に、表現という行為の仕組みを熟知する進行形のアーティストだからである。
アイドルやカリスマへの心酔は、時に思考停止につながるが、そのような現象がほんの一時期にせよ、ディランを取り巻いてあったとすれば、それは単なる皮肉でしかない。
ディランの本質は自らに問い、そして問い続けることにある。問うことはディランの第二の本能であり、そしてそれがディランを天才にした。天才とは、何の変哲もない時代の景色の中に謎を見いだし、そこから、時を超えた普遍性や本質性にまで辿り着く者のことを言うが、天才は決して偶然生まれるのではない。自らが抱いた謎や興味をどこまでも追い続ける行為こそが、その繰り返しが彼を天才にするのだ。
ともあれ、問うという行為によって成長するという、誰もが自らの身体の内に持つ生命体のシステムにディランがプラグインしたことによって、ポップミュージックの表層を支える巨大な岩盤の下で静かに眠っていたマグマは、急激にそのエナジーの噴出口を求めて蠢き始めたのだった。


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