「人と生きる」をちゃんとやると、よく寝れるという立証
一緒に仕事をしている森の仲間と
ひとつのプロジェクトのなかで
仲間に「あること」を言われたときに
めちゃ傷ついて
半日くらい悶々としてしまった昨日。
それはわたし由来のわたしにまつわる案件で
ひとさまの時間をさいて、わたしのことに奔走してもらっているのだけれど
仲間に言われたことで
傷ついて、不貞腐れて、わたしのせいじゃないもん
っておもったり
いや、わたしのせいだから、あんなことを言われて仕方ないのだ
もう逃げたい
やりたくない隠れたいいないほうが迷惑にならない
って過剰に自分を責めたりしていた
でも、結局その思いは成仏せずに
自分の中でどんどん発酵していってしまい
自家中毒になりかけたとき
は!これではだめだ。と、同じプロジェクトのメンバーに
すこしぼやいてみた。
西やんにこんなことを言われて傷ついた。って。
そしたら、ぼやいた相手からは
「西やんは、まるちゃんの未来のために、それを伝えたって聞いてるよ。
いま、まるちゃんを甘やかしたらだめだとおもうから。って!」
と、めちゃくちゃキラキラした言葉が帰ってきた。
おっこと主 化した、わたしの中の発酵して腐りかけた「邪」が、このひとことで、
ぶわ!っと祓われた。まじで、体感としてそんなかんじ。
顔が真っ黒になっていく感じが、ふーちゃんのひとことで
ぶわ!!っと洗い流された感覚。
そしたら、急にキラキラとしたものが頭上からふってきた。
西やんから、ポテサラをつくってもらったことや
発酵玄米やステーキでわたしの貧血を退治してくれたことを思い出した
貴重な時間をさいて、うちにきて、怒りながら私に請求書の整理を促してくる西やんの顔が急に目の前にあらわれた。
家族なんだから頼ってほしいと言ってくれたことを思い出した。
そうだった。わたしは、西やんから、ふーちゃんから、いつもいつも大事にされていた。
・・・・・
いつもいつも
自分が傷つく時
または自分を守りたい時
ただただ自分が視野狭窄に陥って
わたしたちがどこに向かっているのかを
わたしは忘れる。
誰とともに生きていきたいのかを、忘れる。
そして、事実の確認もすぐすっ飛ばす。
相手の心がどこにあるのか、どこに向かっているのかを
確認するのを忘れる。
間にはいってくれたふーちゃんは
「いつもだったら、めんどくさい、勝手にやってくれ。と、当事者になることから遠ざかっていたけれど
今回は、同じ方向を向いているのに、もったいない。っておもったから、まるちゃんに伝えられたよ」
そう言ってくれた。
愛を信じる、っていうことを
直視して
まのあたりにした時間だった。
そしたら、私の中の傷ついた子は、ふわーっと体から炙り出されて
その後、わたしたちは、すごくここちのいい雰囲気で会議ができて
笑いながらはなすことができた。めっちゃいいオンライン会議だった。
終わる頃、てのひらがめちゃくちゃ熱くなった。
「自分の好きだったところ」=「人が好きなところ」と久しぶりに対面してうれしくなった。
そして
大好きな人の笑顔をおもいだしながら
深い眠りにつくと
朝、あの泥のような感覚が身体に残ることはなく
かみさまに
今日もみんながずっと笑顔でいられますように!と
すごく晴れやかな気持ちで朝を迎えることができた
こんな感覚は、もしかしたら本当に
幼稚園か、そのあたりくらいのとき以来かもしれない。
ほんとうに、こころの芯から、大好きだなあ。ずっと笑っていたいなあ。って
ただ、それだけでいいや。と思えるのが不思議だった。
相手を思い切り信頼して、過ごせた。
自分を思い切り信頼して、眠れた。
この身体の感覚が
「自分という存在に寛ぐ」という感覚なのかもしれない。
この先にもっと深い感覚があるなら
ずっとその先まで旅してみたい!
・・・・・・・
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