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読書について思うことの端書

頭痛を抱えていない人にいくら頭痛薬を与えようと効き目がないのと同じで、文学、殊に純文学や、もっと言えばハウツーは現状の生活に、この世の中に何ら違和感を覚えていない人に読ませても効果は期待できない。薬が一種の毒であり、効き目のない薬を延々と摂取することがかえって毒によって身を苦しめるのと同じく、必要のない読書はかえって心の奥に毒の芽を生むことになる。

平凡な日常へのあらためて抱く、疑問の芽も、疑念も。

本というのは本来はごく少数の人間が手に取るものだろう。

本を読む人は世間的には賢そうに見える。だが、それは読書による効果が多少あるにせよ、読書によってもたらされたものでは無いことは確かだろう。

PTA的な読書推奨の雰囲気は「きっかけ」を設けるには良い機会であり、否定をすることはないが、本来的な意味で本を求める者は極自然に本へと歩み寄る日が必ず訪れると思うところがある。

なので、本を読めば賢くなるは納得がいかない。

生きづらさを抱えた人が本を読む。大雑把に言えば何か問題を抱く人。

枠の外でポツリといるような孤独感を感じるのは、そもそも枠の内が存在するからだ。

病を抱える人間が医者にかかるように、世に生きづらさを抱える悩める読者は逃げるようにして、またはオアシスがそこに無いだろうかと文学に手を伸ばす。

しかし、残酷なことに、良き影響を与えるであろう本は読者に対して「救いはない」、「逃げ場はない」と言う普遍的事実を歯に衣着せずバッサリと通告する。

結論として、悩める読者は「行動」を迫られる。

行動を迫られ、行動を起こす読者とって本が与えたもうた最良の利は、その悩める読者に迫られた行動が単なる思いつきの行動ではなく、作者と読者の共犯関係によって成立する行動であること。

これが最良で、最大の利であろう。

恐らくこれは天秤が平行に釣り合うことで見せる均衡の取れた状態ではなく、もはや作者、作家が思想に憑依する状態に近いかもしれない。

憑依される側が未熟であればたちまち飲み込まれる危険を常に孕んでいる。

この歪で虚無的な世界を生きるにあたって、歪で虚無的な世界を肯定も否定もせず、ただ単身、自身の思想を基に立ち向かうための糧の一つとして、時に読書は、本はその行動の一助とならなくもない。

しかし、また残酷なことに、医者の不養生という言葉に似ているように、作者もまた悩める読者である。極めて悩んでいる。

結局のところ、作者と読者は案外同じ穴の狢であり、病めるマイノリティの傷の慰め合いの側面が強いのだ。

この世が虚無的でないことに気が付かぬ人は、その人こそが虚無的な状態であるからに他ならない。

本当の意味で読書を必要としている人間は不幸であり、そして幸福である。

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