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BTSに衣装提供… 老舗メゾン「Dior」を自由研究してみた(第2回)

第二次世界大戦で除隊後、陥落したパリから離れ、ファッションデザインからも距離を置いたディオール。フィガロのポール・カルベスと連絡を取り合ううちに、再びパリに戻る決意をする(第1回はこちら)。

「爆弾と同じくらい時代遅れ」

パリに戻ったディオールはルロンのもとで働くことになる。ここで1年半、ファッションや洋裁について学び、デザイン画を描き続けた。

その間に、かつて運営していたギャラリーの絵画がアメリカで売れ、わずかながらお金も入ってくる。

愛するパリに戻り、デザイン画を描き、ファッションを学び、貧困からも抜け出したディオール。10年以上続いた暗黒期を経てようやく手にしたその生活は、幸福そのものだった。

ただしフランス人、特に女性のファッションについては思うところがあったようだ。

ドイツに占領されていたフランスには、それでもスタイリッシュであり続けようとした女性の姿があった。ただ、ファッションの主権は依然として制服(軍服)が奪ったまま。そのような状況に鬱々とし、また、憤りを感じていた。

それはディオールだけでなく、雑誌「VOGUE」も、痛烈な戦争批判を込めてこう書いている。

「エレガンスへの欲望を刺激する心が躍るような生地も、きらきらしたアクセサリーも、すてきなレストランもパーティもない。流行を制覇できるスマートな女性もほとんどいない。あるのは、購買意欲を打ち消す厳しい贅沢税のみ」

「創造性豊かな変化を起こさなくてはならない。昨年のパリの帽子とスカートは、昨年の爆弾と同じくらい時代遅れだった」

ただし、ディオールは自身が改革者になるつもりはなかった。ようやく手に入れた平穏な生活を失いたくないという気持ちだけでなく、潜在的な劣等感があったからだ。

同時代を生きたBALENCIAGAの創設者、クリストバル・バレンシアガは12歳のときから洋裁を学び始め、20代で自身の店をオープン。一方ディオールはこのとき40歳。自身のブランド設立など夢にも思っておらず、Dior創設後でさえも「経験のなさからつねに引け目を感じていた」と語るほどだった。

「私だって、野心をもっていい」

時を同じくしてパリの衣裳店「フィリップ・エ・ガストン」の支配人、マルセル・ブサックは、店を改革するための新しいデザイナーを探していた。

ディオールも当初はデザイナー探しに協力する姿勢を見せていたが、そうこうしているうちにルロンの店が成功。それを間近で見ていたディオールの心にはこんな思いが宿るようになる。

「私だって、野心をもっていい」

その思いが抑えられなくなったディオール。ついに、ブサックに「どうして僕ではいけないのだ」と伝えたという。

そうしてディオールはガストンの再建に携わることに。しかし、あくまで再建が目的だったブサックとは異なり、ディオールはもっと大きなものを見ていた。そして、ブサックのオフィスでこう宣言したという。

「今は、ファッションの新しいトレンドが起こるときなのです。それは、オートクチュールの最高の伝統と、すばらしい贅沢をよみがえらせ、裕福で目の肥えた得意客を、シンプルな印象の影に精巧な職人技をしのばせたドレスで装わせるメゾンです」

ガストン再建ではなく、自分の名前で、自分の好きな場所に、自分の店を作る──ガストンはディオールの宣言を聞き入れ、600万フランを出資することに決めた。

ディオールはついに自身のメゾン設立へと動き出したのである。

私人ディオールとの決別

出資を受けたものの、ディオールの劣等感は顕在化する一方だった。40歳でのメゾン設立。一番恐れを感じていたのは、ほかの誰でもないディオール本人だった。

しかし、そんなディオールを決心させる出来事が起きる。

1つは占い師の言葉だ。少年期から占いに絶大な信頼を置いていたディオール。ブランド設立についても相談に訪れ、こう告げられたそうだ。

「クリスチャン・ディオール店を設立しなさい。初めの条件がどのようであってもこれほどの幸運は絶対に得られません」

この占い師の言葉はディオールを後押しすることになった。

もう1つ大きな出来事がある。それは父親の死だ。ディオールはそれ以降の人生を、父親が愛してくれた私人ディオールではなく、「デザイナーとしてのクリスチャン・ディオールの役にささげなければいけない」と語っている。

父親に可愛がられ、自由で幸福な時代を謳歌した私人ディオール。そして、デザイナーとして激動の時代に挑む公人ディオール。メゾンの設立は前者を、そして静かで穏やかな生活を「諦めた」瞬間でもあった。

そのような考えから、ディオールの自伝は「Dior et Moi(ディオールと私)」と名付けられている。

ディオールの幽霊が出る!?

メゾン設立への意思を固めたディオールだが、実はもう1つ、彼を決心を後押しするドラマチックな出来事があった。それは、今もパリ8区モンテーニュ通り30番地にある、この建物にまつわる出来事だ。

ディオールはこの建物に特別な思い入れがあった。それは友人ピエール・コールとの思い出だった。

ピエールは、ディオールにメゾンを設立するよう勧めた最初の人物だった。また、「きみと一緒に計画を実行することがあったら、僕はこの建物にする」と話していたという。

しかし、ピエールはDior設立を待つことなく亡くなってしまう。

そんな思い出から、この物件を切望したディオール。しかしすでに入居者がいたため、ほかの物件を探すほかなかった。

メゾン設立に邁進する日々。そのなかでふと、この物件を見に行こうと思い立ったという。すると偶然にも売りに出されていたのだ。

ディオールは即決。それ以来、アトリエはずっとこの場所に位置している。ディオールは「出発点の小さい建物は、どんなことがあっても替えないつもりである」と、自伝で断言している。

余談だが、アトリエにはディオールの幽霊が出るそうだ。警備員が夜、電気を消そうとすると、誰もいないはずのアトリエで"気配"を感じるのだという。ここまで思い入れがある場所なのだから納得できるような気もする。

1945年12月15日、クリスチャン・ディオール店が誕生。ここからディオールの快進撃が始まる。

ファッションの無血革命

ディオールの初めてのコレクションは、1947年SS。ここで発表したのが、のちに「ニュールック」と呼ばれるスタイルだった。

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© Associations Willy Maywald ADAGP, 2020

特徴的なのはやはり女性的なラインだ。優しい肩、ふくらみを持った胸、細いウエストに、花のようにふわっと広がったスカート。ディオールは「花のように婦人を描いた」と説明している。

ただし、時代は戦後。ディオールのエレガントでゴージャスなルック、そして、高い生活水準を求めるオートクチュールのドレスは、多くの注目を集めるとともにバッシングの対象にもなった。

新聞は「資本家たちが浪費している」と罵った。母親たちは「子どもにミルクもあげられないのに」と批判した。イギリスではディオールの報道が規制され、アメリカでも反対運動が起きたほどだ。

しかし、ディオールにとってこれは想定内。むしろニュールックは、ディオールなりの「政府の緊縮政策への反抗」でもあった。配給手帳や衣料用配給券について心配しなければならない貧困に襲われ、極度の節約を強いられる世情へのレジスタンスだったのである。

また、一般人のリアクションについてもディオールは承知のうえだった。しかし、ディオールはいたずらに豪華なものを作ろうとしたわけではない。彼が人々に、そして時代に取り戻そうとしていたのは、経済的な豊かさ以上に心の豊かさだった。

それは、美しいものを見て素直に美しいと思える心だ。どんな状況でも、美しいものは心を励ますと信じる気持ちだ。だからこそ自伝では、自身のデザインした服を「見る者を魅了するための服」と表現している。

そして、数々の批判に対してディオールはこう伝えている。

「私はいつかもっと楽しい時代が必ず来ると答える。そのために流行を守らなければいけない」

ディオールは、人々が貧しい戦後時代から抜け出し、次の幸福な時代へと進む原動力をファッションの流行から生み出そうとした。それができると信じていた。それは彼の使命であり、一種の“無血革命”だったのだ。

ちなみに、ディオールへのバッシングはその贅沢さだけではなかった。一部のフェミニストから"男性から見られるためのファッション"だと批判されたのだ。

しかし、それを踏まえて「VOGUE」はこのように記している。

「ニュールックは、女性のための戦後世界を開始した」

戦後、疲弊していた女性の心をまず立ち上がらせたのはニュールックであり、それを生み出したディオールだったと評価したのだ。

そもそも、ディオールの性的指向(第1回で記したとおり彼はゲイだった。また、トランスジェンダーだったのではないかと思われる)を踏まえると、彼が男性として、女性に、女性性を押し付けるためのフェミニンなドレスを作ったとは考えにくい。彼にあったのは女性性への憧れと称賛だけだ。

これらのバッシングも相まって、ディオールはより大きな注目を集めていった。彼はパリの名物となり、街を歩けば写真を撮られ、有名税に悩まされることもあった。

保守主義の改革者

ニュールックは直訳すると「新しい型」であるため、ディオールがファッション史における新たな発明をしたと誤解を生むことが多い。しかし、実態はベルエポック時代のリバイバルなのだ。

ここにも、ディオールの改革者らしさが垣間見える。

生家にあった芸術品、ルイ16世様式の実家などの影響でクラシカルなエレガンスを好んだディオール。彼は保守主義だったといっても過言ではない。ニュールックもそんな性格から生まれたものであり、エレガンスに対する格別な嗅覚は彼の武器でもある。

その一方で、ディオールは「退歩主義ではない」ことを強調していた。

ディオールによるベルエポック時代の"再評価"は、当時の美しさを過去にではなく、未来にもっていく作業だった。「あの時代に戻ろう」ではなく、その美しさを原動力に「次へ進もう」と呼びかける動きだったのだ。

保守主義であり改革者。一見矛盾した2つの要素は、ディオールのなかで見事に共存していたのである。

ビジネスマンとしての手腕

Diorと聞いて思い浮かべるのは衣装だけではないだろう。フレグランス、メイクアップ、スキンケア、ジュエリー、ウォッチ──その分野は多岐にわたる。

ディオールは、これらの商品展開についてかなり戦略的に取り組んでいた。特にフレグランスはメゾン設立当初から、グランヴィル時代の幼馴染で香水にくわしいセルジュ・エフトレール・リイーシュを担当に据えていた。

ちなみに最初のフレグランスは「ミス ディオール」。これは妹カトリーヌを讃えて作られたものだ。

第二次世界大戦で軍に参加し、大活躍したカトリーヌ。しかし、ゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密国家警察)に捕えられ、ラーフェンスブリュック強制収容所に送られてしまう。ディオールは、カトリーヌをはじめ捕えられたフランス人の解放運動に参加。カトリーヌは衰弱しながらもなんとか帰国することができた。そんな妹の健闘を称え、作ったのが「ミス ディオール」だった。

そんなフレグランスに始まり、帽子、ファー、ジュエリー、コルセット、手袋、ストッキング、靴──ディオールは、ファッションの一大帝国を築いていった。そこにはある思惑があった。

オートクチュールを手に入れられるのは一部の裕福な人間だけだ。映画「ディオールと私」では、1着5000万円のオートクチュールを購入した顧客のエピソードが出てくる。

しかし、フレグランスやメイクアップならば誰でも手に入れることができる。ディオールは、誰もがDiorという”夢”を買えるよう商品を展開していったのだ。

また、ディオールが設立当初から据えていた部門で、もう1つ重要なものがある。それは広報だ。

ディオールは、ハリソン・エリオットという若いアメリカ人を広報担当に置き、メディアと良好な関係を築こうとした。メゾンを成功へと導くためには、メディアへの露出が欠かせないと理解していたのだ。

しかし、Diorが宣伝費を散財して昇り詰めたのかと言われるとそうではない。絶対に衣装の質を落とぬよう、厳しく留意していたという。

これらの戦略によって、Diorは一部の裕福な人間、ファッション好きな人間だけでなく、世間に広く知られるようになった。1950年にはパリのオートクチュール産業の全輸出利益の半分以上を占めるまでに成長。1957年には世界87ヵ国でライセンス契約を結んだ。

遅咲きのデビューに劣等感を抱いていたディオール。しかし、40歳という成熟した年齢だったからこそ、アートとしてのファッション(ディオールはデザインを「詩的表現」と形容した)と、ビジネスとしてのファッションのバランスを客観的に見ながら進めることができたのかもしれない。

次回は、ディオールの死と、BTSの衣装にもふれていく。最終回はこちら