見出し画像

22 師 久保良宏氏の言葉を思い出していた

「探究」も「個別最適な学び」も目指すものではなく、結果としてそうなったものにつけられた暫定的な名称に過ぎない。(Femixくらしと教育をつなぐwe2022.2/3)

そう、石川晋さんは語っている。
先日、友人との定例報告会でこのことが話題となった。「問題解決の授業」はいつからか目指すものになってしまった。そのため、研究会では再現度が話題となることが多く、『その手法では「問題解決の授業」ではないのでは?』といった議論で終わってしまっていた。市の研究会を中心的に指導にあたる方は、このことを問題視しているようだ。

友人は「この授業でどれだけの人間が理解できるようになったか、その人数で『良い実践』かどうかを議論していく必要がある」と言っていた。そんな動きがあるようだ。

でも、僕はこの考えに少し違和感を抱いていた。それはなぜなのか考えてみることにした。

①2つの団体に片足ずつ入れる

札幌の堀裕嗣先生が、ある研究会の中で「2つの団体に片足ずつ入れ、そちらではそちらの系譜に関する議論を、こちらではこちらの系譜に関する議論をとことんする。そして、自分はその共通部分として、何を選択していくのかが重要だ」というようなことを言っていた。「そちらから見たこちら」「こちらから見たそちら」がわかり、ちゃんと負の部分を理解することができる。それが盲目的になり、突き進んでしまう自分への楔となる。だから、その団体ではないどこかに片足を入れておけばいいのだ。

② 「好きやおもしろい」がどれだけ伝わったのかを議論する

上條晴夫先生が著書の中で言っていることである。
自分の「好きやおもしろい」がどれだけの人に伝わったのかを議論する。授業ってそういうものなのではないのか、と思う。自分の感じた「好きやおもしろい」を、子どもたちと共有したい、と。事後検討会も授業者の「好きやおもしろい」を共有し、「だったら、こうした方が人数が増えるのでは?」を意見交換すればいいのではないだろうか。
「私から見ると、こんな生徒がいたよ」と、授業者の想像できなかった部分を教えてあげて、授業者の解像度をあげる。そして、おのおのの「こうするべき」じゃなくて、あくまで授業者の思いを実現するには「こうした方が良かった」をどんどん投げてみる。


最後に、石川晋さんの言葉に戻ってくる。

ぼくは教育の世界で先生方ずうっと唱え続けなければならない呪文があるとすれば「子どもに聞こう」ではないかと思っています。

相馬一彦先生だって「子どもに聞いた」結果として、「問題解決の授業」に至ったわけだと想像する。当時の子どもたちの声から「問題解決の授業」を具体化していったのだろう。だから、僕らもいまの子どもたちの声をちゃんと聞いて、授業をつくっていけばいい。ただ、それだけだ。子どもに聞いても、すべてを声にして返してくれるわけではない。声なき声で終わってしまうことは多々ある。

僕らの師 久保良宏先生は、常々こう言っていた。
「本学の人間が、理数科を学んできた人間に数学の力で勝ることは考えにくい。だからこそ、子どもを理解する力に関しては秀でていてほしい。ちゃんと子どもの『わからない』が想像できる人間であってほしい。」と。