起業もチャレンジなら不起業もチャレンジです
★本当にそれはチャレンジですか?
起業は今の日本において閉塞感を打破するためにも必要なものだろうと理解しています。
頭では
起業なさる方の文章を拝見していて次の言葉が頻出しているように思います
「リスクを取る」
起業が何と比較してリスクを取ると言っているかというと、給与所得者として企業や組織で仕事をすることと比較しての「リスク」ということでしょう。
けれどもわたしは二者間の単純比較では決してソリューション(こういう言葉がビジネス的には好まれますので英単語で書いてみました)に至らないと思うんです。
「介護者として生きるリスクを取る」
いわゆる8050問題のような老人のプライドのみに配慮した論理構成などではなくて、むしろ5080問題というようなものが潜伏していることが日本のほんとうの問題だろうと思います。
5080問題とわたしが今わかりやすく逆読みで申し上げたのは8050問題のように高齢者がしっかりしていてその下の世代はダメダメだというのは実は本質でも実態でもなくて現実に起こっていることをズバリと言えばそれは「自分より一歳でも年上の人間からが老人だ」という高齢者の驕り昂ぶりが原因だろうということです。
ほんとうに後進を育て、自分の子や孫たちにバトンタッチする責任を感じているのならば
「自分はもうキツい。年を取った。どうか助けてくれ」
と自らが老人であるそのありのままの状態を子や孫にシャッポを脱いで晒せばよいだけではないでしょうか。
けれどもそうではなく、「総活躍」や「健康寿命」といった曖昧模糊な言葉に騙されて「自分はまだ大丈夫だ。できるし現にできているだろう?だから子や孫でなく自分に直接注力して支援せよ」と豪語しているのだろうと思います。
少子高齢化に対するあらゆる支援制度が老人≒被介護者を主体として組み立てられており、介護者の視点というものは放り投げ捨てられている、というのが実相だろうと考えます。
気を悪くされてもそれが本質だから言わねばなりません。
起業しようとなさっている方の中の何割かは上記の老人のように「自分に直接注力して支援せよ」とおっしゃっているように聴こえてしまうんです。
このような状況の中においては、わたしは次のようなことを考えてしまうんです。
・やりたいことをやることがリスクを取ることと必ずしもイコールではなく
・やりたいことをやることがチャレンジとも必ずしもイコールではなく
・やらねばならぬこと、本意ではないけれどもやるべきこと、を為すことの方が
実はリスクを取ることであり、
チャレンジではないですか?
★やりたいことをやらぬことがチャレンジでないと誰が決めたのしょうか?
リスクを取るのだからやりたいことをやってチャレンジするのは自己責任だから誰から文句を言われるものではないと言いたい方が世の大半だろうと思います。
だから世を挙げて選択肢を増やすために介護保険制度を整備して親の介護の負担を減らし、年金も親たちが自立して・・・いえ、自活するために手厚く支給するのだと。
ほんとうにそうでしょうか?
わたしは究極の自己責任が課せられるのは人間界ではなく自然界だと思っています。
草木は屋根のない大きな天の下で雨を受け風を受け日照を受け大地からも沁み出るお土の水を受け虫や微生物の息吹を受け地の中にも天のお日様と対称するように火球があり熱を受け
草木の自生や自活のようでいて実は鳥獣虫に葉や実身を捧げ、そうすることによって種を残し
では草木のカラダは?
枯れ葉てて朽ちて地に倒れ、肥やしとなりて更にお土を宝と変化させて子孫たる種から芽を出させ茎を伸ばし葉を茂らせ花を咲かせ
子孫たちがまた鳥獣虫に身を捧げる
それどころか草木たちは光合成の大役を果たし、あらゆる生物、当然人間を含む全生物のために『気』を吐き出し給う
天晴草木
★肥やしにもならぬ人間
草木が種を作りその後お土を宝となすためにせねばならぬことは
自分が朽ちて斃れること
自然の摂理のとおりに老いと衰えを認め、土を拝むように斃れ横たわりて命を使い尽くして後進にすべてを託すこと
視よ 現世の人間界の老人どもを
オラまだ大丈夫だ
オラの方が子や孫より有用だ
オラの方が強い
オラがオラが
後進に託す謙遜もなく
我が身を斃す潔さもなく
我がの活躍しか興味なし
もっと早くに斃るれば
後に続くものたちに
肥やしと為せる身もあるを
もっと早くに音を上げば
子孫が凛とするものを
灰すら肥やしになるものを
虚栄の汚泥が遺るだけ
★リスクを取るチャレンジとは己が斃れることも織り込んでなすべきことに挑む道
わたしがオリンピックにずっと違和感を覚えていたのはまさにこの部分なんです。
我よしの努力の結晶
時節を無視して自分の人生の都合に合わせて為している努力はどこまで行っても我がさえよければよいという努力
同じ競技であったとしても、震災の直後にあったその時節にこそ大和魂をという活躍を果たした競技者たちは我がの栄光のために努力したのではなかったからこそひとびとのココロをなぐさめたのでは
「パラリンピックに疎外感を覚える」
こう発言なさった身障者の方がおられたことも未だに忘れられません。
健常のアスリートであろうと
パラアスリートであろうとも
自身の栄誉のため
自身の栄光のため
自身の功名のため
そのために為される努力はどんなに過酷なものでもどんなに合理的なものでも
なすべきことをなす努力に勝てない
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