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ドイツの娯楽コーヒーカードの説明書にあるコンスタンティヌスの時代について

こちらのサイト
A:西暦320年にコンスタンティヌス大帝がエジプトに行った記録。
と発見した本について語って行こうと思います。

946年間(紀元前305年~西暦641年)のギリシャとの融合プトレマイオス朝からのローマ帝国エジプト

エジプト文化のギリシャナイズ

エジプト王朝が滅亡した後からエジプトが西暦641年にイスラームに制圧されるまでの946年間もの間(日本で例えると聖徳太子の頃~室町中期の応仁の乱ぐらいの長さ)、ゴリゴリの古代エジプト文化から→ギリシャ化時代とその後ローマ&キリスト融合時代が続きました。
日本でも縄文時代平安時代江戸時代と文化も流行った髪型や衣装も信仰も違いますが、でもどれも日本です。私も知りませんでしたが、世間でもあまり知られていないギリシャ化~ローマンエジプト時代も立派なエジプト文化。

タイトルの画像でもわかりますが、古代エジプトの数千年もの間、かたくなに横ばかりを向いていた壁画やパピルス画が、しっかり正面を向いています。(違和感;)
ドイツの娯楽カードのエジプトらしくないと言っていた前を向いたライオンも、出版社の人がグレコローマン時代の書物を見たのだとしたら、ドイツの娯楽以外の占いカードでもローマンエジプトの文化から持って来たシンボルのイラストを模したカードなどもあったとしたらタイトル画像の様なフォーチュンカードももしかしてありえなくもなさそう??エジプトについて知らないのではなく、ドイツ周辺で知られている当時のエジプト文化が「ローマンエジプトだった」と言うだけの事だった可能性があります。

この946年間が具体的にどういった文化だったのかとても分りやすい動画を少し前に見つけましたので、ご紹介します。こちら↓

日本人は特に、義務教育の教科書にもこの時代は100年にも満たないぐらいにしか思えないぐらいサラッとしか習わないので、認識もないし、エジプトらしくもないから興味も湧きにくいしで見逃しがちですが、実に946年続いた文化。そしてこの時代、エジプトで何が起こったかと言うと、徐々にスライド浸透された古代エジプトの神や文化とキリスト教の融合化。古代からのエジプトの文化や神様のシンボルの意味を抹殺や否定などせずに、似た意味のものを同一化しながら浸透させて行ったようです。
例えば
アンクレットのマーク♀(生命を司る神=復活)

十字架のマーク十(キリストの復活)
の事と同じ事と言った風に無理強い無く数世紀をかけて徐々に浸透させていったようです。

このエジプトらしくないと感じてしまう長期の時代、ギリシャに統治された事により、主だった文字はデモティックに変わり、その後西暦60年以降ぐらいに文字はギリシャのアルファベットをとり入れたコプト語に変わります。キリスト教が浸透し始めるた時代、それは原始キリスト教にあたるコプト教会の始まり。なので文字でキリスト教の事を伝道したり国民に教育したりするのためにギリシャと共通のアルファベットのあるコプト語でパピルスにしたためたりしていたのでしょう。下記コプト文字について記載したページ↓

西暦600年までのローマはギリシャ語を話していたようですが、その後ラテン語にかわります。そしてローマンエジプト時代コプト語は流通の事情もありギリシャ語やラテン語に容易に翻訳さてていたそうで、現代でも一部のコプト教会で行事の時にはコプト語のミサが歌われているそうです。
(こんなにキリスト教を語ってはいますが、私はキリスト教徒と違います)
近年エジプトのあちらこちらの洞窟やらからユダの福音書もそうですが、原始キリスト教の福音書が出て来ています。おそらくキリストさんが伝えた事が誇張や解釈のズレも無いベーシックに近い状態で記されているのだと思いますが、何故そのベーシックな福音書を洞窟に隠したり少し近い国では死海に隠したりする必要があったのでしょう・・・ついつい都市伝説的に考えてしまいますが、この問題はドイツの娯楽に関係がないのでスルーする事に・・・
ヒエログリフとは形状が違うコプト文字、当時、キリスト教の布教のためにギリシャ語やラテン語に翻訳されたパピルスや写本があっても、ヒエログリフの一部の意味は知られていたと思いますが、コプト語と形状が全く違うため文章としてはなかなか分らなかったのだと思います。

エジプトで使われた文字の歴史

話しを大元のコンスタンティヌスに戻しますが、西暦320年にコンスタンティヌス大帝がエジプトに行った記録が出て来ないのはやはり、現時点でも私はドイツの娯楽カードの編集者が話を盛ったのではなく、ドイツで当時の一部の修道院の人に誤情報か゛出どころの凄い本だ”として誇張が伝わってしまっていただけなのだと思っています。伝言ゲームでも6人目10人目と伝わる度に話がちょとづつ変わって行きます。
例えば「コンスタンティヌスが生きていた時代の頃の本だと思う」が→「コンスタンティヌスが見つけて来た本」のような・・・もしコプト語で書かれた本だとすると、コンスタンティヌスが生きていた時代に当てはまります。
コンスタンティヌスが本当にエジプトに個人的に行ったのだとしたら、国の統治に忙しいのに国をほっぽり出してエジプト豪遊???って国民から不審や批判の声も出かねない?
もしエジプトに関わりを持ったとすれば、例えばですが、コンスタンティヌスが「エジプトのアレクサンドリアには100年ほど前に大きな図書館があって、膨大なパピルス文書や古代の知恵があったようです。」と誰かから耳にしたとして、「100年だったらそこにあった本はまだどこかに残っているかもしれない」と部下に調査に行かせたというのもあり得る話です。ただこれは1つの例えですが・・・
(下の方の「Roman Egypt 内容紹介」ご参照下さい。)

どこから集められたのか現時点ではどうとも言わないのですが、チャットGBTや、他の質問サイトで質問、サイト検索などで出て来たのが、
ドイツの娯楽カードの出版社の人がドイツに行った時代、多くのエジプトの本(パピルスからの写本だと思うのですが)がドイツにあったようです。このあたりから話が当時のイエズス会がドイツにあるエジプトの本と関連してくるよう???
その話しはこちらのサイト
B:エジプトの占いの本が、占いに否定的なキリスト教のしかもドイツの修道院にある謎。
について深掘りして行く時に、これにつても語って行こうと思います。



ここから下記はローマンエジプト当時のローマとエジプトの関係の資料です

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
ローマ支配下のエジプト(詳細は「アエギュプトゥス」を参照):

ローマ帝国の東方諸属州はヘレニズム時代を通じてギリシア語による行政や知識活動が活発に行われていた地域であり、ローマ領に組み込まれてもギリシア文化がその基調となっていた[227]。この状況はアエギュプトゥス(以下、エジプト)でも同様であり、ローマは先行するプトレマイオス朝の行政的伝統を踏襲した[227]。無論なんの変化も無かったわけではなく、ローマ人たちは現地の富裕層を育成して徴税や治安維持を担わせ、財政的負担を軽減するために、社会的なコミュニティの再編などを行ったと見られる[227][228]

Roman Egypt 内容紹介:
エジプトは 7 世紀にわたってローマ帝国において重要な役割を果たしました。この国は裕福で、地中海世界とインド洋世界の間の戦略的な位置を占めていましたが、その独特の肥沃な土地はローマ、そしてコンスタンティノープルの帝国首都に食料を供給するのに役立ちました。今日のエジプトの文化的および宗教的景観は、特にエジプトのキリスト教が採用した形態を含め、ローマ時代の発展に大きく貢献しています。さらに、特にその社会、経済、政府、文化のほぼ唯一の詳細な描写を与える膨大な数の文書が回収されたため、この時代の歴史に関する豊富な情報源が得られます。この本は、エジプト、米国、英国の 6 人の歴史家と考古学者の著作であり、学生や一般の読者にこの時代の新しい歴史を読みやすく提供しており、美術品、考古学的な遺跡、文書のイラストや、そこからの引用が多数含まれています。一次情報源。

その他検索結果:

キリスト教が初めてエジプトに現れた時期からキリスト教がこの地域の支配的な宗教となった時期(およそ西暦100年から600年)までの数世紀にわたる古代エジプト宗教の複雑な運命を検証。
パピルスや聖人の生涯から考古学やテラコッタの像まで、土着の信仰が継続していることを示すあらゆる証拠を考慮し、また民俗宗教の人類学的研究を基にしても、ファラオ時代のエジプトの宗教はこれまで考えられていたほど早くは消滅せず、むしろ政治の中心地から村や家庭へと追いやられ、そこで何世紀にもわたって活発に存在し続けたと言われています。

エジプトの神託と聖職者の運命、魔術のテキストの機能、家庭内カルトのダイナミクスを分析しても、古代文化がヘレニズム、ローマ政府、キリスト教の支配などの影響によって変容しながらも、維持されてきたようです。
社会的、政治的な変化が同時に起こっていた他の地中海文化とは異なるエジプトの特殊性を認識し、「異教の衰退」ではなく、後期エジプトの宗教をエジプトの歴史からひもとくと、異教の崇拝がどれほど長く、精力的に生き残ったかがわかります。

【エジプトで使われた文字と年代】

1. ヒエログリフ (Hieroglyphs)

  • 使用時期: 紀元前3200年頃 - 紀元4世紀

  • 概要: エジプトで最も古く、最もよく知られている文字です。ヒエログリフは象形文字の一種で、宗教的、公式な文書や碑文、墓に刻まれることが多く、神聖な文字とされました。

  • 用途: 宗教的テキスト、王の碑文、寺院の壁など。

2. ヒエラティック (Hieratic)

  • 使用時期: 紀元前2900年頃 - 紀元3世紀

  • 概要: ヒエログリフの簡略化された形で、主に書き物に使用されました。主に葬祭文書、商業文書、行政文書などで使われ、日常的な用途にも適応されました。文字の流れが早く、パピルスや石の上に書かれました。

  • 用途: パピルスに書かれた宗教テキスト、行政文書、商業記録など。

3. デモティック (Demotic)

  • 使用時期: 紀元前7世紀 - 紀元5世紀

  • 概要: ヒエラティックのさらに簡略化された形で、エジプトの一般的な日常文書や商業記録、法的文書に広く使われました。デモティックは「民衆の文字」という意味を持ち、より広い層に使用されるようになりました。

  • 用途: 商業文書、法律文書、私信、契約書など。

4. コプト文字 (Coptic)

  • 使用時期: 紀元2世紀 - 紀元9世紀以降

  • 概要: エジプト語がギリシャ文字とエジプトのデモティックの一部を取り入れて表現される文字体系です。キリスト教がエジプトで広まる過程で使用が普及し、主にキリスト教の文書や聖典に使用されました。

  • 用途: 宗教文書、キリスト教テキスト、法律文書など。

エジプトの文字は宗教、行政、日常生活など様々な分野で使用され、時代と共に進化してきました。ヒエログリフから始まり、最終的にコプト文字へと発展し、エジプトの文化と歴史を支える重要な役割を果たしました。

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