(電気が)止まったら死ぬ
先週の土曜日、電気が止まった。
わけがわからなかった。
トイレが流れない。シャワーの後、ドライヤーができない。
冷房がつかない。冷蔵庫の食品が腐る。
薄暗い部屋で1人、絶望した。
引っ越してからもうすぐ1年。
俺は電気を今までどう支払っていたかわからなかった。
特に支払い催促の書類も来ていなかった。いや、それらしきものは来ていた気がしたが、書類を探しても探しても見当たらない。
東京電力に問い合わせをしても、土日で対応してもらえない。
月曜まで待たなければならず、この土日は知り合いの家に居候させてもらった。
そして迎えた今日月曜日。
無事に問い合わせから支払いへと進めることができて、1時間も経たないうちに通電してもらうことができた。
電気がつく。トイレが流れる。冷房がつく。冷蔵庫が冷える。こんな当たり前のことに感謝している。
今から、冷蔵庫と冷凍庫の食品を全て捨てる。
すでに何か臭い。
これは大きな痛みである。
じゃあこの瞬間、この痛みと引き換えに何を学ぶのか。
やはり大事なのは現状把握と準備である。
現状、電気はどこにどうやって支払いをして供給されているのか。
これは水道やガスも同じ。日々生活できることは当たり前ではない。
周りから「電気代支払い忘れるなら引き落としにしたらええやん」って言われても「いやーその手続きがめんどい」と言って全くやらなかった。
元々、自分の脳内では
A:「引き落としにする手続きのめんどさ」という痛み > B:「電気が止まる」という痛み
だったかもしれない。
しかし、Bの痛みの解像度が上がった今では
A:「引き落としにする手続きのめんどさ」という痛み < B:「電気が止まってトイレが流れず、食品も腐り、誰も家に来てくれない」という痛み
だと脳内の認識が変わった。
だから今回の支払いからクレジットの引き落としに変えるという手続きをすることができた。5分で完了した。今までなぜやらなかったのか…
このように、痛みを天秤にかけて「本当にこうなったらやばい」という危機を感じないと、人は行動しない。
何かを失うリスクを負うときには「失ったときの痛み」の解像度を大きく上げることで失わずに済むのかもしれない。
知らんけど。
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