見出し画像

クリエイターに愛を伝えることの罪

先日、友人が撮った写真の考察を呟いたところ、本人から反応があったので、調子に乗って自分なりの更なる分析を送った。撮影や写真への理解も経験も乏しい一素人であるにも関わらず。
そのことを、深夜3時に後悔した。

今年の6月に、3人で紫陽花を撮りに行った、その時のアルバムをふと見返していて気付いたこと。三者三様に人物写真の構図に特徴があって面白いこと。その友人の場合は被写体がカメラ側を向いているか、反対側を向いているか(カメラからは被写体の表情が見えない)によって構図が変わる傾向にあること。

クリエイターご本人に向かって感想を発信したことは、幾度かある。
自分であれば好意的な感想はいくらでも欲しいし、お金でも食糧でもない『言葉』が前へ進む活力になり得ることを知っている。
「あなたの手から産み出される作品が好きです」という声がご本人に届かないのは勿体なくて、鍵をつけていないSNSで感想を発信するようになった。タグを付けることなどでご本人が気づけるようにしているものの、反応が返ってくることを期待しているものではない。が、一方的な発信が容易に双方向の会話になるのでしょっちゅう慌てている。

ある水彩で女の子を描く方は、「いわさきちひろさんみたい」という私の言葉に「私の絵の根っこのひとつになっているので嬉しい」と返してくださった。
ある金属を用いたジュエリー・オブジェデザイナーさんは、「祝祭のテーマに相応しく煌びやか」という感想に「庭で祝祭のパーティーをしているイメージで作ったので相応しいとおっしゃっていただき嬉しいです」とわざわざ書いてくださった。
有難いことに今のところ気持ちの良い交流が出来ている。

件の友人もカメラ片手に活動するクリエイターの一人であり、実は彼女の写真について言及したことが過去にも一度あった。
その時の彼女もまた、喜んでくれていたし、彼女の写真について語る私の文章を褒めてもくれた。
そのことも頭にあって、調子に乗ったのだと自覚している。

今回は、「(そう言われて)考えてみると~~を重視してる感じがする」「そんな気する!」と会話を続けてくれた。
適当なところでツイッターを閉じた後も、私の頭はぐるぐると考え続けた。
題材が無い夜には一人反省会が勝手に始まるような私の頭だ、『本人からのフィードバック』は格好の餌でしかない。考え続けて、ふと思い当たる。


さっき私が指摘したこと、どうやら彼女は無意識ではなかったか?



思考の矛先がぐんぐんとこちらに迫ってくる。

今まで私が感想を押し付けてきた相手は、ある程度の知名度があって、個展を開いたことがあって、作品の方向性が確立されていて、私以外にも色々な人から色々な感想を得ているはずだ。
けれど彼女の場合は違う、と思う。
私は友人だから彼女を既に知っているが、彼女の活動範囲はそれらのクリエイターほどではない。いわば発展途上。(本当にどの口がどの目線から言うのだと思う)

つまり、彼女の作風に一定の方向性が見られたとしても、彼女自身が自分の作家性だと意識している部分の他に、無意識が働きかけている部分がまだまだある。と思っている。
自分との対話の時間を含む絵画や立体作品ではなく、一瞬を切り取る写真であればなおのこと。



そもそも言葉の威力は強いのだ。
金策にも腹の足しにもならないのに、まだ生きようかと思わせるくらいに。
それなのにあろうことか、無意識の行為を外野が言語化して突きつけてしまったならば、もう元には戻らない。

影のように不確かに支えていたクリエイターの独創性にひかりを当ててしまったなら、それは明確な形を造らざるを得なくなる。
彼女がこの先、誰かに向けてシャッターを切る度に、私の言葉を思い出したとしても不思議ではないのだ。
彼女の心や腕や頭がひっそりと調整していた角度や距離や焦点の、繊細で曖昧なバランスは、その神秘は、もう二度と縁の下にいることを許されなくなってしまった。


──もちろん、一夜のやり取りくらいで彼女の作風はちっとも変わらないかもしれない。
趣味に全力で、推しのライブ当選と仕事の忙しさで感情ジェットコースターになっている彼女にそんなこと気にする暇はないかもしれない。

だとしても私は気を付けなければいけない。
愛ゆえ、良かれと思って、などと言って識者でもないのにクリエイターの表現の神秘をひかりの下に引きずり出したなら、それはコントロールとも言える。翻ってアンチですらある。


こんなこと考えた、なんて呟いて、彼女の目に留まりでもしたらそれこそとんでもない干渉なので、ここに認めて自戒とする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?