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承認欲求を満たすおしゃれだった


❝ 楽しい ❞
という感情をファッションで辿る。

自分の記録として、
ファッション、メイク、髪型など
外見にまつわることにフォーカスして
記憶を辿ってブログを書いた。(未公開)

自分らしいと感じる時期。

それは、
①自分の気持ちと意思で選び
②その意思決定に不安がなく
③自由に楽しめている状態

その時期は、
何を着ていたのか、記憶があった。

おそらく、
自分らしく生きれていない時期。それは、
真逆だったのかな。
(真逆すぎても、強い記憶にはなりそうだね。)

私の場合は、
自分らしいと感じた時期以外
何を着ていたのか、思い出せないのです。

あんな服着てたな、
こんな服着てたな、
嬉しかったな、楽しかったな、
純粋なこころで、
人からの目も気にすることなく、
愉しめていた時は
なぜか人からも褒められる。

大人になってからは、
ほとんど外見に対しては
自由にやってこれたので、
その時々に楽しめていて不満はない。

でも、この❝ 楽しい ❞
という感情に成長のようなものが。

わたしの場合は、
制限からの解放によって、
ファッションを楽しんできた。

それは、校則、親のしつけ、とか。

あとは、職場のルールはあるから、
それに応じて、
休日は自由。という意味でも楽しんでた。

転職を重ねながら
外見的ルールは一切ない世界へと
どんどん移行していったので、
不自由さは何も無くなった。

そうすればするほど、
できなかったことができる世界に行く。

派手な服が着れる。
派手なネイルができる。
派手な髪型ができる。

ブリーチヘアにする。は、
20代でやったこともあったけど、
職場的に、ダメじゃないけど
よくもないというところでやめてしまった。

だから、またやりたい気持ちが
湧き出た時にやったことで、
2年以上は楽しんだ。
やっておいてよかった。

ジアミンアレルギーなのか、
頭皮の荒れによって辞める形になって。

今はもう満足。

私の中では、もう
やりたかったことが全部できちゃった感じ。

ラスボスだったのが、
ハイトーンへの執着

自分の意思で地毛にしたい!
と辞めたわけじゃない。

⧹  やりたいからやる ⧸
なんだけど、
ハイトーンのわたしに価値をおいた事。

あまり人がやらないことをやること。
派手で目立ちたい。
という自己承認欲求。

それは、ダメだと制限されたことが
強くやりたい反動になっていたから。

とにかく褒められたし、
素敵って言われたし、

ハイトーンの私=最高
にしてるから、
もちろんその設定通りに。

地毛に戻している今、
もう何とも思わない気持ちで、
やっといてよかったー
(エゴを満たしておいて良かったー)
という気持ち。

一旦、ニュートラルになった。
というか、モノクロな感じになった。

ここからが問題。

マズローの欲求も、
承認欲求までが欠乏欲求。

今までの私は、
欠乏欲求がパワーになっていた。
けど、ちゃんとパワーだった。笑

でも、満たされたとて、
生まれるのはもっと認められたい。
っていうサイクルを産む。

私の場合はもっと派手に。

承認のためにする必要がなくなって、
どっちでもいい。
という場所に立つと、
外見への興味がちょっと薄れてくる。笑

欠乏欲求や、コンプレックスは
確かに強烈な強みになる。

ある種それも、才能なのかもしれないけど。

幸福かどうかは分からない。

外見を楽しんだ時代。
がある意味、
37歳になって終わったのかも。

これからは楽しまないのではなく、
愉しいに変えていきたい。

今までもやってたことだけど、
自分の機能を使うだけ。
ただ、それだけ。
そこにエゴを入れる必要がない場所へ。

このエゴが、
不足に傾いている人は、
異常におしゃれをしない。

このエゴが、
過剰に傾いている人は、
異常におしゃれをする。

だから、異常にお洒落できる人が、
異常にお洒落できない人に
価値を生んでいるのかもしれないね。

でもここにはすごくアンバランスさがある。

ニュートラルな視点は
もっと満ちた愉しい世界なのだと思うから、
そっちに行きたいなと思う。

子どもの頃、
自分の意思で選び、
何のジャッジもなかった頃のように。

大人になると、賢くもなれるし
それが知恵にもなったけど、
ジャッジという争いも生まれるから。

理論は正義ではない、
感情は正義ではない、
感覚と直感、本音を守ること。
わたしの美学。


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