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「めんどくさい」を避けてはいけない気がする

こんにちは、いけかよです。
去年からの「禍」によって、生活は大きく変わりました。思ってもみなかった経験のなかで、思ってもみなかった自分のリアクションがありました。

もちろん、悪いことばかりじゃないと思うんです。例えばオンラインで仕事の大半をこなすことができるようになったとかいうのは、今回起きた変化の象徴的な部分です。
わたしはフリーランスではあるけれど、クライアントのオフィスに常駐するという契約の案件もあったし、対面での打ち合わせを希望するクライアントさんはやはりいるので、ほぼ毎日のように「出勤」していました。

それが、しなくてよくなった。毎日、+1時間寝られる。余裕がある。
しかも、わたしは(なぜか?)オンラインミーティングの際にメイクをしなくなりました。対面でクライアントに会うときは、アイメイクもちゃんとやって、フルメイクで向かいます。しかしなんでなんでしょう、同じクライアントにカメラ越しに会うのに、家にいるからか?メイクする気がなくなってしまいました。最初はファンデと眉とチークぐらいはやってましたが、いまはファンデはおろか、眉毛すら書かない日もあります。朝イチミーティングならだいたい起きたばっかりなので、顔にはまだ塗りたてのクリームがテカっているほどです。なんて楽チンなんでしょう。肌にもやさしいってもんです。

しかも、いいんだか悪いんだかわかりませんが、外で遅くまで酒を飲むということもできなくなり、二日酔いでゲロゲロなる日っていうのもほぼなくなりました。
でも家で当然毎晩飲んでいますが「なんか夜が長いわ」ってなって、適度に眠くなったら12時くらいには寝る。なんてヘルシーな毎日なんでしょう。

おまけにトレーニングだって、自宅にいながらオンラインで受けることができるしいろんなツールがある。

便利。楽チン。効率的。
どんどんわたしたちの生活は「最適化」されていって、家から出なくてもだいたいなんでもできるようになって、「めんどくさい」「非効率」は排除されていきます。これらは非の打ち所がないようにも思えます。

しかし、その「最適化」の先に果たして何があるのかと、なんだか少し怖いような気もしてしまう自分がいます。

「効率的」は疲れる

コロナ禍で「効率的」な生活ができるようになって感じたのは、快適さは最初の少しの間だけで、その次はいろんな焦燥と葛藤と孤独が襲ってきました。
そして「禍」がもうじき2年になろうとしている今思うのは「わたしは意外と暇である」ということです。
もうすこし具体的に言うなら「誰かに会いに外に行かなくて良くなったら、わたしはやることがあまりない」ということです。

もちろん仕事はあるんですけど。打ち合わせなどはありますが、孤独にこつこつやらないといけないことが大半なんですけど。

きっと、コロナ禍によって浮いた「移動時間」とかを、有効に使っている人もいるでしょう。その時間によって、学んだり健康になったり仕事を増やしたりしている人もいるのでしょう。

しかし、いけかよは、その浮いた時間というものを持て余してしまったひとりです。

「やることないわ……」

そんなふうに思うのはやはり夜です。
夕方以降、飲みに行かなかったらほんとに家でやることがない。

いえ、あるんですよやることなんてきっと。仕事なんて基本的には次から次へと湧いてきますし、思いついたアイデアなんかを企画書にまとめたり本読んだりするのってきっとすごくいいことだと思います。
また、ジムが空いてなきゃ外走りにいくとかすればいいんですよ。そうすればきっとやせるはず。
ほかにも、オンラインでいろんな学びがありますから、新しいスキルを身につけるために切磋琢磨すりゃいいんですよ。

そんなふうに時間を「有効に」活用すれば、きっと自分を好きになれると思うんです。もっと素敵な人になれるんだろうと思うんです。

しかし、そこまでして「有効に」時間を使った先になにがあるんだろう、と思ってしまう自分がいるのです。
効率的ってなんだか疲れませんか?この矛盾はなんなんでしょう、疲れないようにするための効率化のはずなのに。

非効率でもいいから、着替えて出かけてだれかと会っていっしょに酒を飲みたい。と思うのです。

食洗機は必要なのか

ここからはいけかよの完全なる主観です。

食器洗い機というものがありますね。
いま、かなりの普及率だと思います。うちの実家にもあります。
食洗機を買う人にはそれぞれの理由がもちろんあると思います。食器洗いが嫌いだとかめんどくさいとか、食器を割るのがいやだとか、うちの母なんかは手荒れがひどいので食洗機を買ったと言っていたし。

しかし一方、食器洗いは「瞑想」でもあると思っています。ビル・ゲイツとジェフ・ベゾスが日常的に皿洗いをしているという話をご存知の方もおられましょう。
彼らは、皿洗いを瞑想だとは言ってませんが、その要素がすごくあるんだろうなとわたしは思っているんです。
山のように溜まった汚れた食器、うんざりしてしまうんですけど、しかし、その皿洗いの時間があることで無心になれて、洗い終わったらすっきりする。ちょっと自分を褒めたくなる。ほんでたまにふとアイデアが湧いたりする。

そんな素敵な時間を食洗機に奪われてしまうのって、もったいないことなのでは?といけかよは思うのです。このめんどくささは、必要なことなんじゃないかと。

そして、1日のなかでせいぜい数分から数十分の食器洗いの時間がとれないほどの生活であるとしたら、それってどこがが間違っているんじゃないかとも思うのです。

生活の筋肉を落としてはいけない

コロナ禍で、家から出なくてもなにもかも完結する(させねばならない)状況になってから、たまに家からでるとき、人に会うとき、以前にくらべてものすごく「面倒」になっている自分に気が付きました。
たとえばちょっと早く起きないといけないとか、フルメイクしないといけないとか、ちゃんとした服着ないといけないとか、電車の時間調べないといけないとか。

以前であればデフォルトだったそのルーティーンが、いまではルーティーンではなくなっていることで、「負荷」になっているんですよね。

でもなんかこれってこわいことかも、って思ったのです。
在宅ワーク時間が増えれば増えるほど筋力が落ちて、歩くのが遅くなった自分に気がつくのに時間はかかりませんでした。
同じように、以前であればルーティーンだったことを「負荷」と感じるのは、「生活の筋肉」が落ちているとでもいうような感覚。
だから、出かけないといけないってなると「めんどくさい」って思う自分がいる。

完全に2019年までの生活には戻らないことはわかっていても、でも、この「めんどくさい」って避けてはいけない気がするのです。

生活の筋肉を取り戻すために、めんどくささは避けてはいけない気がするのです。
だから、たとえば家を出るなんらかの理由がわたしたちには必要です。

「めんどくさい」って、こわいことです。

たとえば歩くのめんどくさい、ってなれば、もちろん筋力は衰えます。
たとえば仕事やいろんな些末なタスクが積み上がったり、はたまた心がすごく疲れているときなんかは、ごはんを作ることはおろか、食べることすらめんどくさくなることがあります。
お風呂も着替えも化粧落とすのもめんどくさい。
皿洗いも掃除も洗濯もめんどくさい。

けっきょく、生きるっていうことは基本的にめんどくさいことで構成されている。

でも、そんなめんどくささを避けていたら、究極、生きることがめんどくさいってなってしまうんじゃないだろうか。

めんどくささを徹底的に避けた果てに、栄養が送られるチューブで繋がれて自動運転カーで寝ながら暮らすとか、あんまり愉快な未来じゃないはず。

でも、極論だけどめんどくささを避けた先にはそんな怖さがあるのです。

「めんどくさい」は希望をはらんでいる

生きることがめんどくさいことなのであれば、「美しいこと」「大切なこと」「すばらしいこと」も、基本的にはめんどくささの中にあるのだと、いけかよは思うのです。
生きてる意味とか、幸せとか、よろこびとか。

ビル・ゲイツが必ず皿洗いをするのも、その時間に大切な意味を見出しているから。
そうじとか洗濯とかそういう日常のこまごましためんどくさいことって、基本的には自分で自分の生活を整えているという、自分でちゃんと自分の人生の舵を握っているという感覚を与えてくれる大事な作業だといけかよは思っているのです。

人間関係も基本的にはめんどくさいことばかりです。ていうか、人間の苦しみというのはすべて人間関係に起因すると言ったのはかのアドラー先生。おっしゃるとおりやと思います。

でも、そのめんどくささのなかに、希望とか愛とかもあったりする。

「ていねいな暮らし」を推奨したいわけじゃないけれど、それよりももっと基本的な、「めんどくさい」を、わりと大事にしたいなって思っているのです。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

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