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ちゅん太のいた夏(第九回)

【坂上田村麻呂が入った温泉】

花巻には結構な数の温泉宿がある。あわてて東京を出発せずによく調べて予約して来れば、温泉三昧の日々が過ごせたと思うが後の祭りだ。多くの宿が、「宮沢賢治ゆかりの~」という枕詞が付いていて、この大沢温泉も、宮沢賢治が幼少期から度々訪れていた場所らしい。賢治と親交のあった高村光太郎も「本当の温泉の味がする」といって絶賛したようだ。もっと遡れば坂上田村麻呂が東征の際に立ち寄って、毒矢の傷を癒やしたという逸話もある。あ、これはウエノさんの受け売りではなくて自分で調べました。ふふ。
ちゅん太に言わせれば、人間は目の前にないことが好き、ということになるのだろう。確かに伝説の人物が疲れを癒やしたのだ、有名人が入った温泉だから有り難いと思うのは、まさに目の前にないものを大事にしている証拠だ。雀、あるいは動物全般からすれば、自分に合うものかどうか、本来大切なのはそれだけだろうと思う。
ただ、そんな征夷大将軍や国民的童話作家のリコメンドがなくても私は掛け値なしに気に入った。宿泊の予定を告げたら快く湯船にも案内してくれた。ここは通常のいわゆる旅館が2施設、自炊して泊まる施設が1棟あるが、今回はたまたま自炊のほうが取れた。料金も手頃だし、雰囲気もこちらのほうがまさに山の中のひなびた温泉宿という風情があふれていて、願ったり叶ったりだ。本来であれば長逗留するための施設なのだと思うが、それはいつかの機会に譲ろう。また来たい場所がこの世界に増えるのは、悪いことではない。
女性専用の露天風呂から清流の景色を眺めながら、そんなことを考えていた。ちゅん太クンもこのあたりをどこか飛んでいるのだろう。温泉と渓谷と清流。日本人なら、あと他に何が必要だろうか。

   「たべものが いる」

あ、いたのね、ちゅん太クン。温泉はどう?

   「あたたかいみずで みずあびしたことない」

そうか。今度お風呂であったかい水浴びやってあげるよ。

   「ヒトはほんとに きれいずき」

まあ、必要に迫られてのキレイ好き、じゃないけどね。言ってみれば癒され好き、なんだよね。坂上田村麻呂は毒矢の傷を癒やしたわけだけど、そんな重病人だけが温泉に入るわけじゃないし。それにしても雀はのんびり癒やしの時間とか体験しないで一生が終わっちゃうよね、きっと。この点も人間は贅沢だよ。申し訳ない。
ウエノさんは、じっと目を閉じながら湯に浸かっている。できれば温泉の効果が素晴らしく発揮されて、いろいろと世の中と反りが合わないウエノさんの心が、少しでも癒されると良いのだけれど。
すると、後ろから年配の女性の声がした。
「お邪魔してもよろしいですか?」
よろしいも何も、みんなの施設なのだから遠慮はいらない。話すきっかけを作りたかったのだと思う。コンタクトをしていないからはっきりとはわからなかったが、ほとんど真っ白な頭髪と、年齢の割にはスラリとした長身、ちょっと欧米人のような雰囲気だった。声のトーンと顔に刻まれた歳月の痕跡から、年齢は70歳を過ぎている様子だったが、滑舌ははっきりしていた。
「お二人はどちらから?やっぱり宮沢賢治がお好きなの?まだお若いの?肌が違うものねえ」
と矢継ぎ早に質問された。瞑想のような感じで温泉に浸かっていたウエノさんが、なぜか落ち着き払ってスラスラと答え始めた。
「東京から来ました。私たちは旅先で知り合った関係ですが、いい温泉を探しながら一緒に旅をしています。宮沢賢治についてはあまり知りません。それと、若くもありません。肌を褒めてくれてありがとうございます。こんなステキな温泉が見つかって、今とても満足しています」
「あら、そう。良かったわ。私はもうこの温泉に通って30年になるの。といっても花巻市内の人間だけど。この温泉と、宮沢賢治のファンなの」
地元の人の割には言葉に訛が微塵もない。どういうことだろう。でもその理由については質問しにくい。
「もともとは私も東京なの。宮沢賢治好きが高じて、こっちで仕事を探して、結婚もこっちの人としたのね。花巻の住人になれて良かった、って思ってるの」
疑問について自ら話してくれて良かった。それにしても凄い、そこまで人の生き方に影響を与えられるなら、宮沢賢治も作家冥利に尽きることだろう。天国から彼がこのご婦人を見つけてくれていると良いのだけれど。
それとウエノさんは、この人が東京生まれで訛がないことに、いつ気が付いたのか不思議だ。これまで横で見ていると、地元の人とは少し話しづらそうにしていることが多かった。訛があると単に聞き取りにくいからだと思うが、今回は最初の問いかけ一発でわかったのだろうか。
「賢治はね、お父さんに連れられて何度もここに来ているの。お父さんが信仰していた仏教会の講習会場だったらしいのね」
自分も親に連れられて温泉に行ったことを思い出した。ご婦人は続けた。
「親に温泉に連れてきてもらえる子供って、幸せだと思わない?温泉て、別に子供はそんなに楽しくないでしょ。湯船で泳いだりするぐらいで。遊園地とか、美味しいレストランの方が楽しい。なのに温泉に連れてくるってことは、親がじっくり話したり、一緒の時間を楽しみたい気持ちの現れじゃないかなって気がするの」
そういう考え方もあるのか。確かに私は温泉そのものについて何も覚えていない。母の何ともいえない表情を覚えているだけだ。私は、ご婦人に言わせれば幸せな子供だったということになるが、自分でもよくわからない。
「私は連れて行ってもらったことないなあ」ウエノさんが、本当に残念そうな声の調子で話した。
「あ、いや連れて行ってもらえなかったら不幸せってことじゃなくてね、賢治は親もお金持ちだったし、子供時代はとっても恵まれて育ったってことを言いたかったの。そう、私ボランティアで観光ガイドやってるものだから、つい宮沢賢治に絡めて話をしちゃうのね。気にしないでね」
話がややこしくなりそうだったので、私が温泉に行った思い出は話さなかった。頃合いを見て、ご婦人を置いて先に出た。
「これからどうする?」ウエノさんに訊いてみた。
「途中のホールに卓球台があったよ。卓球しようよ」
フロントに告げて、ラケットとボールを出してもらった。
パコンパコンパコン。これが温泉卓球か。話には聞いたことあるけど、やってみたら楽しいぞ。今度は口に出してウエノさんに言ってみた。
「ねえ(パコン)この旅、すごく楽しい。(パコン)ウエノさんと一緒に旅ができて、(パコン)本当によかった」
「そうなんだ(パコン)私も楽しい(パコン)なんか(パコン)ムキになっちゃうね」
評判のスイーツを食べて、観光して、温泉入って卓球して。私たち女子旅のフルコースを満喫してない?気ままな一人旅のつもりで取る物も取り敢えず出かけたのに、いつの間にかコテコテの女子旅になっている。人生って面白いなあと思う。そう思わせてくれるウエノさんを、いま猛烈にハグしたい気分だよ。まあしないけど。そうだ、さっきのこと訊いてみよう。
「ねえ(パコン)さっきのおばあさん(パコン)もともと東京の人だって(パコン)わかってた?」
「うん、なんとなく(パコン:ここでネットにかける。再サーブ、パコン)特に意識してなかった」
「でもウエノさんに(パコン)しては珍しく(パコン)初対面でも(パコン)話しやすそうだったから」
「ああ、わかりやすく(パコン)質問してくれたから(パコン)答えやすかった(パコン)だけよ。普通はみんな(空振り、後ろに逸らす。再サーブ)なんだっけ?そう、質問なのか(パコン)同意されたいのか(パコン)わからないような(パコン)話し方を(パコン)しているものなの」
 へえ、ちょっとズケズケ質問してくる感じがしたけど、その方が答えやすいのね。
「あなたも最初(パコン)わかりやすく質問(パコン)してくれたでしょ(パコン)。タクシー代割り勘(パコン)にしようとか(パコン)ちょっとズケ(パコン)ズケした人だなあって(パコン)思ったけど」
ふ~ん、そうなんだ。ああそうですか。ちょっとハイな気分は萎えたけど、その日は宿の食堂でソバを食べて、大人しく早々に就寝した。ちゅん太クンもどこか近くの木の枝でお休みしてる頃。大丈夫、まだまだ楽しい気分は継続中よ!

つづく

サポートのしくみがよくわからないので教えてください。