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小説「実在人間、架空人間」第十話

「どういう事や、この場所で何か知ってる事でもあるんか?」

「いや、知っているというより、推論だが気付いた事がある」

 松葉は自身の眼鏡のブリッジを深く押し上げた。

「気付く?」

「ああ、あの部屋での光の法則性を無視した不自然さに惑わされ、気付くのに遅れたが、ここは、少なくともこの森は部屋とは違い、光の、ある法則に従って生成されている可能性がある」

「生成って、ここは作られたって言うんか?」

「間接的に少なくともその可能性はある」

「間接的?それはどういう……」

「まずはこれを見てくれ」

 松葉が自身の眼鏡のブリッジに触れる直前で、私が話しを続けた為、松葉の手が自身の顔の前で止まった。私は付近にあった手頃な枝を拾って、地面の砂地に枝をペン代わりにしてかがんで図を書いた。

 まずは大きく横長な長方形を描く、この長方形の中に更に図を描いた。

 まず電子を放つ銃、これを左端真ん中に描く。この発射される電子は目で確認することは出来ないとするとして補足を字で書き、次に真ん中に三本の縦線、上に一本、真ん中に一本、下に一本を描く。この線との間に隙間があり、そこにAの隙間、Bの隙間、と書き、この2つの隙間が存在する事を絵で表現した。

 最後に長方形の右に長い一本の縦線を描く、これをスクリーンであると補足で書き、そのスクリーン上にAの隙間から直線上に電子を一つ配置、電子は丸い円で表現している、図はこれで完成。

「この図に見覚えはあるか?」

「何やこれ」

 女は「ああ……」と呟き何も言わずにただ見ている。ハク、ガクも首を少し傾げ、見ている。どうやら女以外は知らないといった様子だった。少なくとも量子力学にはまったく縁の無い人生を送っていたと推測できる。

「これは二重スリット実験の過程を説明する為の図形だ」

「二重スリット実験?」

「電子は粒子であり波であるという実験、クラウス・イェンソン、ピエール・ジョルジョ・メルリ、といった様々な学者が研究し、リチャード・P・ファインマンは、この実験を量子力学の精髄と言う程に評価した、量子力学の中でも最も美しい実験と言われている」

「で、その実験が何やって言うんや、説明してくれんとちょっと分からへんわ」

「この図は、左の銃が電子を飛ばす機器であるとして、隙間A、Bを縦線のスリットとする、銃から電子を飛ばして隙間Bから通過させ、奥のスクリーンに当てるとスクリーンに跡が残る、軌道が直線なのだから、この図の様になる」

「まあ、そうやな、それで?」

「この電子を大量に飛ばすと干渉縞ができる、縞模様をスクリーンに写す事になる」

 私は図の横にさらにもう一つ図を書いた。単純な波の図、スクリーンに大量に電子を飛ばすと隙間から溢れた電子が波になる。

「この隙間の二つから出た電子が重なり合う事で、濃い部分と薄い部分が交互に現れるんだ」

 松葉が自身の眼鏡の端のフレームに触れた。

「しかし、これは片方の隙間に電子の粒子を大量に飛ばしての結果だ、一つの粒子が隙間を抜ける前に分裂し、一つの粒子が二つとなって両側の隙間から抜け、その後、二つの粒子が一つとなって、スクリーンに映し出されているという矛盾が起きているんだ」

「……え、だんだん分からんようになってきた」

「例えば、二つの隙間にボールを投げたとして、スクリーンには直線上に跡が残ると考えるのが自然だ、しかし、ボールを一つずつ片方の隙間に飛ばしているのに縞模様の形を取っている、さらに、経路が同じであるのに別の場所にぶつかっている、飛ばされたボールは同じ経路から、別の場所へランダムにスクリーンにぶつかっているんだ」

「何やそれは……」

「一つずつ飛ばしても最後にはやはり縞模様を描いた、これは何が起きているのかというと、確定している事柄がランダムに投影されているという事だ、学者達はこの矛盾しか無い現象を調べる為に、隙間の前に電子を観測する機器を配置し、どうなっているかを調べた」

 サイズが合っていないのか、松葉の眼鏡が少しずり落ち、鼻の中程で留まった。

「その結果は、観測した場合のみ、スリットを抜けた電子は縞模様を描く事無く、直線上に跡を残したんだ」

 松葉はズレ落ちた眼鏡を、両側のフレームを片手で掴んで上にぐっと上げて戻した。

「……え、えーっと、言うてる事は解るんやけど、その意味が解らんねんけど」

「この意味というか、答えだけが見つかっていて、数式であったり、理由そのものはまだ解っていない、解明されていない」

「要するにあれか、ランダムに電子は飛ぶけど、観測したら経路を外れないって事なんか?」

「そういう事だ、電子が意思を持っているかの様に、観測された時点で結果が変わる、これは光で検証しても同様に起きる、光子も観測すれば結果が変わる」

 私の話を今まで黙って聞いていた女が、話し始めた。

「あなたの言いたい事は分かったわ、あれでしょ、その二重スリット実験の話の内容と同等の事が、部屋から外を見る度に辺りが変わる現象と一緒で、それが何らかの理由で起きているって言いたいのよね?」

「ああ」

「はっきり言って、とても信じがたいわ、まあ、ここの存在自体意味不明だからそれ自体はいいわ、でもね、この事が木に登ってはいけない理由にはならないわよね、他に何か理由でもあるのかしら?」

「勿論自分でも馬鹿げた事を言っているのは分かっている、異論は認めるよ、それと、木に登ってはいけない理由は、今私が話した事よりも簡素に説明できる」

「へぇ、じゃあ説明して貰いましょうか」

 女がキッと睨むように私を見ている、納得できないものは絶対に認めない、しっかりとした自我を持っているのだろう。

「理由は、部屋から外を見た瞬間に切り替わった景色、これが他の場所で起こらないとは言いきれないからだ」

 女はやはり苛立っていた、不機嫌に片足でリズムを取っている。

「例えば、この現象は部屋から出て、外を見た場合に起きたとも取れるが見た高さがそれを起こしているとも取れる。木は部屋よりも高い位置にあるから、それが起きないとも言えないし、もし木を登りきった瞬間に別の場所に変わったとしたら、登っていた木は消え、支えを失った体はそのまま地面へと落下し、致命的な怪我に繋がる、治療する術を持たない私達はその怪我は死を意味する」

「あら、そう」

 女は気に入らないといった様子だ、と同時に足の打音は止まった。

「あと、その現象が平地でも起きる可能性が無いとは言えない、もし皆が別行動を取ってここが別の場所へと変われば、皆とはぐれる可能性を考えると、それも控えたい、それが木を登ってはいけない理由、ロープを探す為に皆で別れて行動してはいけない理由だ。各々の個人での活動には限界がある、それを無くしてしまう可能性のある行動そのものがリスクのある行動であるというのが私の見解だ」

「ふん、まあいいわ、でもやっぱり二重スリット実験と部屋との関連性の話は理解しがたいわね」

 どうやら、二重スリット実験の関係性の話以外は納得したようだ。

「二重スリット実験の現象がここでも起きているって言うのは、勿論私のただの推論だし、この実験自体が解明されていないという事実も合わせると、推測の域を出ない、だが、これをこの場所での現象とを結びつけたのには理由がある、勿論その理由も推論ではある」

 この問題の定義は哲学者からすれば矛盾というカテゴリに入らない、実に簡素で実に当たり前なものなのだ。理由は単純で、例えば好きな人がいて、その人は良い人であると確信を持っていたとする、その者自体それを明確に出来る方法は存在しない、その者が善か悪かは観測する者、つまり見た者の意識に存在する。

 よって、電子は波でもあるし、粒子でもある、というのは至極当然の話なのである。

「この不可思議な世界は、観測者の存在によってランダムに決定、そして設定されている」

 この私の言葉を皮切りに皆があきれた様子でゆっくりと歩みを始めた。あの何でも平然と言葉を放つ感覚で生きている松葉でさえもため息混じりの無言で。

 この反応は予想通りだが、この状況の説明はこれが一番有力な説である。そして同時にこれを理解出来る者はここには存在しない事の証明ともなっている。ここから抜け出す理由だけがここの最善であるという認識に留まっている、これが彼ら彼女らの心境だ。

 そう考えてこれ以上の言葉は無意味であると口をつぐみ、皆の歩みに合わせていると、後ろから駆け足の打音が近寄ってきた。

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