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失敗とされているものにも利得が発生している

2024年のパリオリンピックでは、性の多様性とLGBTQ+の選手たちの活躍が注目され、それは失敗のように見えた。しかし、そうして問題視されたその多様性もその当事者らは解放を望む、そうして自由を手にする。


失敗の歴史

これからAIの発達によってAGIやASIが人知を超えるとされていて、そうなれば人は知や理では語れないようになってくる。それは今後ではなくもうすでにその兆候というか、それは現在進行形で始まっている。

▲愚者は他者の成功体験に学び、賢者は失敗の歴史に学ぶ|ekkusii (note.com)

失敗というのはどうも不誠実に見えるようで、というのも新しい、あるいは知らないことに対して人は保守の気持ちが高まる心理が働くから、その要素は我々がわからないから妙な恐怖心を抱いてしまう。

であるから挑戦し失敗した場合に人はそれを不誠実と捉える。

これは真逆に位置する、そのことに関して取り組みたいから挑戦し、結果として失敗したというだけのこと。失敗は決して不誠実ではなく、チャレンジしたことに意味がある。

過去に名は都合でつくられているという記事を書いたが、これはその都合によって挑戦されているし、しかしその話題になっている間はひたすらにその当事者は差別され続けるという"毒"も入っている。


愚行権

AIの進化によってそれが人知を超えるのなら、人に残されるのは愚行を行うことにあるでしょう、失敗をすることでそこから新たに解放が生まれる。

以下のような文面をSNS内で見た。

"学生の男性同士が手を繋いで歩いていた、それは友人同士なのかどうかはわからないが、昔は男性同士手を繋ぐことはタブーとされていたのに、それを見て嬉しくなった"

▲SNSであった文章を要約したもの。

私も実際に目撃したことはある、これはその多様性が話題になったことで解放を望んだ結果、自由を手にしたとも取れる訳だ。

その性の多様性が問題視されながらも、そうした愚行が結果としていい方向へと向かうこともある。

挑戦するというのは何かしらの要素になるし、その挑戦は一見して愚行のように人は捉えがちだが、そうしてチャレンジして失敗したとしても、その失敗そのものを拒否していては何も学ぶことが出来ない。

人には法の範囲内で愚行を行う権利がある。


挑戦

取り合えずやってみるのもいいでしょう、勿論リスクもあるでしょうしそのことで失敗したり笑われたりもするだろうが、少なくともそこで失敗したとしてもそれは学びにもなる。

▲統計的に成功率を上げる|ekkusii (note.com)

イグノーベル賞とはいえ、それなりの実験はされていて上記のリンク先でも書いているように何かを挑戦するのに知能の差はそこまで影響しない。

これは分布でもある、何故なら知能の高い者は少数であるし、平均的な知能は分母として多いのだから、だからこそその分仲間も多い訳で、孤立したりしづらいというのはある種、世間から理解もされやすく、この論文にもあるようにその知能という分野においてそこまで結果に差が開く訳でもないとわかる。

失敗を笑う暇があるのなら、まずは挑戦をした方が効率が良いでしょう。


現実を知るということ

その席は限られている。

”成功の席は限られていて、その位置にある椅子は一脚ずつしか用意されていない、100位という位はその位置にしかなく1位という位もその位置にしか存在しない。

部長はその部署ではその椅子は一脚しかないし、店長もその店でひとつしかないポジションだ、アルバイトも採用枠は決まっていてその枠に入れなければその椅子に座ることすら出来ない。

誰かがその席に座った瞬間からその席は埋まり、その席の所有権はその者に与えられる、成功体験は椅子取りゲームの勝者が体験できるようになっている。その奪われた椅子はもう誰かが座っているのだから、その成功体験をそのままなぞってもその席はもう埋まっていて座ることは出来ない。

例えばコンビニエンスストアの新宿店というその一店舗しか存在しないアルバイト枠が埋まっていたとすれば、それに応募することも事実上不可能だ。それに近い性質のものという意味合いではなく、その席は限られていてるということ。

このことからも成功した誰かの体験から学ぶより、その成功者の経験や失敗した事柄から学ぶのが効率が良いとされている”

▲愚者は他者の成功体験に学び、賢者は失敗の歴史に学ぶ|ekkusii (note.com)から抜粋。

これは事実であり現実的な思考であって間違いが少ない、だからこそ人は無気力になるのでしょう、失敗を笑うのでしょう、しかしながら始めなければその数値は0のまま固定されるのも事実だ。

それが1になるのか100になるのか、果てはマイナスになるのか、そのマイナスの要素を含みながら他では理になっていることもあるでしょう。

席が限られているというのは負けたときに勝者も存在する、その流れにおいて少なくとも影響を与えているし、その勝者の数値にも繋がっている。生きていれば何度でも行うことができるから、そのことに何ら不安がることも、まして良くないとする理由もない。

勝者にも利得があり、敗者にも利得がある。


勝者は挑戦をさせることでも利益になっている

勝者は敗者の存在によって数値を手にしている、これは無作為にチャレンジしてくれればくれる程に利益になる。その敗者が存在するから勝者が存在している、よってそれは勝者の数値や評価に繋がる訳だから、その挑戦を無碍むげに扱うのは理に適っていない。

その敗者が挑戦している者に対して笑うことも理に適っていない、その足を引っ張るだけで無気力を生むだけだ、それが全体ともなれば慣性となってもはやそれを静観することしか出来なくなってしまう。

その問題とされていることや、失敗とされているものにも利得が発生している、これをまず知っておいた方が良いでしょう。

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