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「65秒で行くぞ」日本中距離が動いた日。

オリンピック女子1500m予選。第三組で田中希実が4着、4:02.33の日本新記録で予選を通過したとき、スタンドに座っていた二人のコーチが握手をかわす瞬間が映し出された。時計が止まっていた日本中距離の時計が動き出した瞬間であった。2組を走った卜部蘭をコーチする横田真人と田中希実の父でありコーチである田中健智の姿だ。オリンピック女子1500mにはじめて日本人選手を送り出した二人のコーチだ。

同じようなシーンを思い出した。

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2019年4月。アジア選手権ドーハ。ホテルのロビーで撮ったもの。左が田中コーチ、真ん中が横田コーチ、左が代理人のブレットさんだ。

このときドーハでは田中選手は5000mを15分44秒596位で走り、卜部選手は1500m4分17秒90 4位で走った。(卜部選手はこのとき獲得したポイ大きい東京オリンピック出場に大きく影響した)両選手とも、このとき目の当たりにした世界との差を埋めるべく、この2年間、何度もレースをともにした。田中選手は5000mで世界と戦うために、3000mと1500mと800mと5000mを分割し、世界との距離を詰め、卜部選手は800m、1500mと両種目こなすことで、さらにスピードに磨きをかけた。最初に結果がではじめたのは田中希実選手だ。1500m、3000mと日本記録を更新。田中選手が好記録を連発する、その後ろで卜部選手はラストで田中選手においていかれ、一人旅となるレースが続いた。

田中陣営が考えた東京オリンピックのシナリオは5000m、1500mともにラスト1周で先頭争いに加わるというプランである。東京オリンピックの時点では世界のトップと差がある記録では太刀打ちはできない。(将来的にはそこにたどり着きたいが)ただ、ラスト1周で、先頭集団に加わり、「田中頑張れ!」と日本中が声をあげて応援したくなるようなレース。つまり、記録は狙えないが、記憶に残るようなレースをこの東京で思い描いている。

この2年、国内で行われた田中希実のすべてのレースがタイムで先行する海外選手を視野に入れた「見えない敵」とのレースであった。コロナ禍で海外で勝負ができない以上、田中陣営が考えたのは「ラップタイム」という仮想敵と何度も何度も競うことであった。あらゆるタイプの選手との戦いを想定して、800mや1500mや3000mと本数を重ねた。

一方で卜部には田中希実という大きな壁ができたことで、具体的な倒す相手がみつかった。何度も田中に跳ね返されるたびに、課題を修正していきながら、着実にタイムを伸ばしていく。田中が先行したとしても、余裕をもってラスト1周に入ること、そして終盤(ラスト150m)に失速する傾向の多かった田中との差を埋めるべく、さらにラスト200からのキレを磨いていった。当初は田中選手に大きく差をつけられゴールすることが多かった卜部もテストイベントあたりから、最後に距離を詰めるまでに進化しつつあった。田中、卜部ともにアプローチは全く違えども、近いうちに両者の実力は高いレベルで交わることが予想された。

「65秒で行くぞ」

ホクレン千歳のレース直前、談笑しているところに、そういう話が飛び込んできた。田中希実選手サイドからペースメーカーの設定タイム変更の依頼があったのだ。ホクレン網走では3000mの日本記録を更新。そして直前の北見では5000mを走ったばかり。疲れも残る千歳はあくまで調整と思われていたところに、「日本記録更新ペース」で走るという。

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スタートから田中一人がペースメーカーについて飛び出した。65秒の設定についていける選手は他にはいない。400mをペースメーカーの真後ろで65秒で通過したあとは、65秒で押しきれないペースメーカーを置き去りにして、一人で仮想敵のタイムとの勝負にはいる。5000mでは中盤にどうしても休んでしまう時間帯ができてしまっていたが、1500mだとダレることなく、ペースを維持どころかあげていく。これまで終盤150mで失速する傾向にあったラストがここではさらに伸び、フィニッシュラインを駆け抜けるようにゴールした。

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4分4秒08。自身の日本記録を軽々と更新した。

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「田中希実、順調な仕上がりでオリンピックへ」
そういう見出しがつくような走りであった。しかし、このタイムはあくまでもペースメーカーがついた記録会である。オリンピックの本番で同じようなタイムが出るとは考えづらい。国際大会のトラックではラップタイムには現れないペースの上げ下げがあるからだ。しかも、1500m予選に出場する選手は田中よりも持ちタイムが速い選手ばかりである。着順で通過は難しいかもしれないが、自己ベストに近い走りができれば持ちタイムで拾われる可能性が高い。そうほとんどの人が思っていたはずだ。

1500 METRES WOMEN Heat3
4着 JPN Nozomi TANAKA 4:02.33 NR4:02.33 NR

その予想のはるか斜め上の結果を彼女は叩き出す。それも国際大会の実戦の中で、序盤から飛び出し、ペースの上げ下げにも戸惑うこともなく、自らレースを作り出し、つい先日出したばかりの日本記録をはるかに上回る記録を実戦、それもオリンピック予選という大本番でそれを成し遂げた。

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この順位と記録は奇跡ではない、国際試合への出場が閉ざされた2年間。兵庫県小野市のトラック、そして日本中の小さな記録会や日本選手権での800m1500m5000m3種目エントリー、限られた環境のなかで周到に積み上げられてきた準備が成し遂げた快挙である。オリンピック陸上競技前半戦、日本人選手たちが海外選手とのレース経験の少なさから苦戦するなか、田中希実はタイムという仮想敵を作り出すことで、国際経験の少なさのハンデを埋めた。

改めて1500mラップを読み解くとその準備がかいまみれる。東京オリンピック1500m予選の400m通過は田中の65.7。まさに「65秒で行くぞ」ではないか。

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ホクレン千歳1500mはリハーサル。本番はその再現のようなレースであった。願わくば、田中希実がラスト1周まで先頭集団に残っているレースが「あと2回」みたい。そう思うのは欲張りすぎだろうか。

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